大井川通信

大井川あたりの事ども

なぜ僕は詩を読まないか

10日ばかり先に開催されるとある読書会で、僕は現代詩の入門書について報告することになっている。報告者をかって出たのも、本を選んだのも自分だから文句はいえないが、どうも準備がはかどらない。気持ちがのらない。今回、知ったかぶりの知識ではなく、そういう乗り切れなさも含めて、詩というものの僕にとってのじかの手触りや、根本のありかたを問題にできたらと思う。

子どものころから、わりと詩は好きだった。学生の頃、熱心に詩らしきものを書いていた時期もある。今手元にある詩集や詩論の本は、100冊はこえていると思う。おそらく詩にほとんど関心がなくて、現代詩の本など持っていない、という人がほとんどだと思うから、そういう人から見たら、ずいぶん詩に近い人間に見えるだろう。

しかし僕が、日常的に詩集を手にとることはまったくない。うかうかしていれば、数年間まったく詩にふれなくても大丈夫のような気がする。もちろん、好きな詩作品というのがいくつもあって、それを読み返したときなど、やはり詩はいいなと心の底から思える程度には、詩と相性がいいのにもかかわらず、である。

ときどき自分の書棚の詩のコーナーを眺めて、疎遠になっていることに罪悪感をいだくことがある。それで5,6年前、詩集の余白に感想やら、言葉の定義やら、抜き書きやらを書き込んで汚しながら、バリバリと読みつぶしていこうと、我ながら思いきった決心をしたことがあるのだが、その作業も数冊でとまってしまった。

なぜ僕は詩を手に取らないのか、を反省することは、今、なぜ現代詩がこれほど読まれないのか、という事態を説明することにも通じるかもしれない。

たとえば、音楽が好きでそれをとても大事にしている人は、音楽を聴かない日などないだろう。詩が本当に好きな人は、毎日それを読むことがあたりまえになっているはずだ。しかし、後者は、前者に比べてとんでもなく少数である気がする。

数年音楽を聴かないで大丈夫な人間が、音楽好きはなのれない。僕は自分が詩が好きだとはいえないだろう。やはり、(詩の魅力を知りながら)なぜ詩を読まなくて平気なのか、を問うべきなのだ。