大井川通信

大井川あたりの事ども

無名の詩人を読んでみよう

数少ない有名な詩人以外にも、多くの人が詩を書いているだろう。彼らは、さほど名が知られていないという意味で「無名」の詩人といえる。たまたま目に触れて気に入ったからとか、知り合いから紹介されたから、などという理由で、彼らの詩集も何冊か、僕の書棚に立てかけてある。

たとえば、根石吉久(1951-)の『人形のつめ』(沖積舎 1982)。学生時代、雑誌で作品を知って気に入って、版元まで直接買いに行った記憶がある。今読み返してみても、18篇中、〇が2編、△が5篇で、「打率」は4割に近い。

つぎに、沖野隆一の『なんでもないよ 詩集1968-1976』(私家版 2013)。親しい知人のかつての同人誌仲間の詩人、ということで購入。限定99部発行。面識はないので肩入れする理由はないのだが、作品が面白い。70年前後の学生運動の時代の風俗が、軽快な言葉遊びによってつづられていて、心地よい。19篇中、〇が2編、△が9篇で、なんと6割近い超高打率だ。少し長いが一番好きな詩を引用する。

 

新しい朝だったから/古い朝だったかもしれない/みんななんでもないように座っていた/なんでもないと思った/なんでもない顔をして友だちにウィンクすると/友だちもウィンクした/みんななんでもないようにウィンクした/はたはたと旗もはためいて/まったくの集会びよりだった/異議なしだったのか/それとも意義なしだったのか/みんな棒のような手で拍手した/棒のような手で/ぼくは大きな頭を脱いだ/それはプラスチックでできていて/叩くととても軽い音がする/友だちがチョコレートをくれたので/食後にはレモンをかじった/私服刑事の耳がひかって/それからいきなり天地がさかさになったのだ/さみしい石ほど空をとび/くやしい水ほど火をふいた/公園の入り口が出口で/出口に向かってみんながひとりだった/ぼくは友だちに手をのばした/橋の病院で/ぼくが思い出したのはそこまでだ  (「反復の練習」)

 

わずかのサンプルだけれども、僕の〇△式評価を基準にする限り、詩人の有名・無名は、作品の魅力とほとんど関係ないといえそうだ。