大井川通信

大井川あたりの事ども

平山鉱業所の話(その2)

津屋崎海岸に面して建つ旧旅館に住む友人がいる。その旧旅館の別館を老朽化のために取り壊すことになった。友人は、現代美術にかかわりを持つ人だったから、その前に旧旅館全体を会場にして、現代美術展をおこないたい。それも半年くらいの期間を使って、会合を積み重ねるようなプロジェクト形式で実施するということだった。

これが今から12年前のことだ。別館というのは、もともと炭鉱の保養所だった建物を、買い取って二棟をつなげたものらしい。友人は「明治炭鉱」という名前をうろ覚えで記憶していた。美術作家でもなんでもない僕は、とりあえずそちらの調査を引き受けることにした。

石炭博物館に出向き、名前が近い明治鉱業株式会社の社史を借り出して、たんねんに読み込んでみた。すると、中に保健施設一覧表というのが掲載されている。津屋崎海岸には「一乃荘」という海の家があって、それが面積や部屋数で友人の旧旅館の別館と一致するのだ。明治鉱業株式会社の中の平山鉱業所の所有らしい。

それで桂川町の平山鉱業所跡を訪ねて、旧職員の人に聞き取りをすると、実際に海の家を利用したという人がでてきた。一方、別館の方でもくずかごの裏に「一乃荘」のマジック書きが見つかったり、そろいの食器に平山鉱業所のロゴが入っていることがわかったりして、両者のつながりが確証されるようになった。こうした調査結果は、プロジェクトの会合で逐一報告することができた。

プロジェクトの仕上げの現代美術展で、僕は一つの企画を担当することになった。平山鉱業所の旧職員の方を、旧「一乃荘」の座敷に招いて、そこで炭鉱の話をうかがうという企画だ。当日ご夫婦で参加された岡本さんは、当時の炭鉱の野球部のことや、ドイツの炭鉱への派遣労働の思い出などを話してくださった。後日取り壊された「一乃荘」への供養となったのはまちがいない。

当時はうまく偶然が重なってこの企画が実現したと思っていた。しかし今振り返ってみると、従業員を大切にする社の経営理念が、社史に福利厚生施設についての記載のスペースを与え、閉山後の町に平山炭鉱を大切に思って調査や企画に協力する人々を残してくれたのだ。二枚の絵葉書の広告は、それなりに内容を伴っていたことになる。

ところで、僕自身のことを言えば、これをきっかけに身近な歴史を足を使って調べることの面白さに気づいたのだと思う。