大井川通信

大井川あたりの事ども

「当事者マウンティング」について(その2)

「当事者マウンティング」という造語について、それが、多数派であり、強者である「当事者」をターゲットにしているから、問題ないのではないか、ということを書いた。

たしかに、この言葉が、少数者であり、被差別者である「当事者」に対して使われる可能性も、ゼロではないだろう。しかし、その場合は、この言葉をめぐって対話を始めるきっかけになる。なんくせやいいがかりであれば、それを指摘し、是正すべきところがあれば是正するという、当たり前の態度をとればいい。「当事者」側には、判断したり議論したりする力がないと勝手にそんたくして、批判や議論のベース自体を抹消しようという姿勢は、結果的に良い結果を生まないように思う。

あるしにせの「当事者」運動がある。運動の歴史も長いし、組織も大きく、その成果も大きい。だから、これはかなり例外的な現象だとは思うが、少数派による「当事者マウンティング」が、運動の現場で局所的に頻発する事態が生じた。

しかし、「当事者」側の責任を問うような議論はタブーとされたから、「マウンティング」を感じた側も、それを言葉にできずに押し黙るしかなかった。そのため、表面的には運動は、効率よく、「正義」を押し通し、成果をあげることができたのだと思う。

ところが、議論を封じて、対話を軽視した姿勢が、ツケを残すことになる。運動に対する真の共感を広めることができなかったのだ。思ったことを言えずに下を向いていた人たちが、この問題のために自由に考えて、自主的に新たな対応に動いてくれたりはしない。

今、ネットの中には、長年の運動の成果を否定するような差別的な言動があふれている。多少経緯を知る者として、やりきれない、なさけない思いがする。しかし、こんな事態が発生し、それが放置されてきた背景には、社会的な共感の広がりの薄さがあるような気がする。

対話は効率は悪いし、耳が痛いこともある。しかし、そこからしか真の共感が生まれることはないのだろう。

 

※著者の磯野真穂さんが、ネット上に批判への反論をのせていることに、投稿後気づいた。ていねいに意を尽くしながら、かんじんなところは一歩も引かない姿勢に感心。