大井川通信

大井川あたりの事ども

セミの死によう

生き様(ざま)という言葉はよく使われるけれども自分は嫌いだ、という誰かの文章を読んだことがある。たしかに、力みかえった誇張が感じられるし、音の響きもうつくしくはない。同じ漢字でも、「生きよう」と読んだ方が、やさしく、軽い語感となる。

ここでも、死に様を「死によう」と読むことにする。ことに、たんたんと自然のリズムを刻むセミの命には、死にざまという言葉は似合わない。

毎年、家の玄関のケヤキの木には、たくさんのセミがやってくる。新しい住宅街には、小ぶりの樹木しかないから、小さなケヤキでも貴重なすみかとなるのだ。7月中旬からひと月ばかりは、それこそ「耳を弄する」ばかりの騒音になる。すぐにセミの死骸が、ケヤキの周辺に目につくようになるが、道路のアスファルトの上でひっくり返っている姿は、ちょっと痛々しい。せめて庭の土に帰るように、ひろって投げ込んでみたりする。

8月も後半になると、主役のクマゼミの姿は減っていく。数年前、いつまでも樹皮にしがみついているセミがいるのに気づいたが、よく見るとそのセミはそこで死んでいたのだ。今までそんな姿は見たことがないので、勝手に子どものいたずらと思っていた。モデルガンの玉にでも当たって、飛びたつこともなく命を失ったのだろうと。

それが、今年のケヤキには、今でも二匹のセミが死んだまま、樹皮にとまっている。モデルガンをあつかう長男は家を出ているから、彼は全くの冤罪だったのだ。よく見ると姿は生きているときと変わらなくとも、二つの眼は白っぽく変色して、標本のように生気が失われている。

一匹は、口の先を樹皮に差し込んだままの姿だ。美味しい樹液を口にしながら、寿命を迎えるなんて、なんて穏やかな死にようなのだろう。地面をのたうち回りながらこと切れるセミがほとんどなのだ。僕は、毎日、「生き仏」のようなセミの姿に黙礼しながら、出勤している。