大井川通信

大井川あたりの事ども

「当事者マウンティング」について(その3)

かなり以前のことになるが、ある「当事者」の運動において、差別葉書が連続して送付されて話題となったことがあった。同じ被害者のもとに届く差別葉書は何十通にも及んで、その内容はエスカレートしていく。被害者のことは運動の機関誌でとりあげられ、集会等にも登壇して、解決を訴えるようになった。

僕も、被害者が登壇する研究集会に参加したことがあるのだが、彼の態度にがっかりして、終了後に知り合いに不満をもらしたのを覚えている。

数千人の参加者(行政関係者が多かった)に向かって、彼は、「こんな差別をうけて、私の子どもたちが将来、就職できるのか、結婚できるのか、不安だ。あなたたちにこの気持ちがわかりますか?」と居丈高に問いかけたのだ。

大勢の参加者の中には、さまざまな苦しみや困難を抱えた人たちがいるだろう。現に僕も、「知的障害」のある子どもの子育て真っ最中で、子どもが将来就職したり、結婚したりすることを想定できずに、途方に暮れている状態だった。しかし、もっと大変な親がいることくらいは僕でもわかる。本当に苦しんでいる「当事者」なら、不特定多数の他者にむかって、こんな無神経な問いかけは絶対にできない、という思いがあった。

その時僕は、彼の苦しみは本物ではないと確信したのだけれども、差別葉書自体が偽物だったとまでは、さすがに見抜くことはできなかった。事件が大きくなって、DNA鑑定が実施された結果、彼の自作自演が暴かれたのだ。

臨時の職員だった彼は、自分が被害者になれば、雇用を切れなくなると思って偽葉書を自分に送り始めたのだが、のちに自分が有名になり講演料が入ることに魅力を感じたらしい。そのために平気で自分の家族をこの件に巻き込んだわけだから、本当は子どもの将来に少しも不安など感じていなかったのだ。

しかし、結局、彼を不幸な「加害者」にしてしまったのは、「当事者」の言葉には、どんな疑問や批判をさしはさんではいけないというタブーの存在だったような気がする。そのタブーが作った風通しの悪い空間のなかで、「マウンティング」などという倒錯も発生してしまうのだろう。