大井川通信

大井川あたりの事ども

疲れる若者

『通勤電車で読む詩集』で、トーマ・ヒロコという若い詩人の「ひとつでいい」という詩を読んだ。以下、末尾を引用する。

おはようも/ありがとうも/ごめんなさいも/さようならも/おやすみも/もう要らない/この世を生き抜くためには/挨拶はひとつでいい/「お疲れ」だけで事足りる

朝起きて、学校にたどりつくまでに疲れてしまって、着いたとたんに帰りたくなる。初デートでも、服装や表情や笑い声までよそゆきの姿に、恋人とわかれたとたん、どっと疲れが来る。そういう彼女たちの日常に、ほんとうにリアルで必要なあいさつは、「お疲れ」だけだと詩人はいう。

すでに初老にさしかかってはいるが、僕たちの世代は、こうした「疲れる若者」の走りだったかもしれない。三無主義(無気力・無関心・無責任)やしらけ世代の先輩たちに続く、新人類と呼ばれた世代だったけれど、先輩たちが、まだ何かに対する抵抗として、あえてサボタージュを選んでいたところがあるのに対して、ただ意味なく疲労を感じ始めていたような気がする。

僕の中学時代、丸山君という友だちがいた。小学校時代リトルリーグですごい速球を投げていたらしいが、中学では野球部にははいらずに、だらしなく背中で身体を曲げて椅子にすわり、いつも「疲れた」といっていた。彼のまわりには、運動も勉強もそこそこにできるけれども、部活動や学校行事に積極的に加わらない友人たちが、まったりとつどっていたような記憶がある。

集団がつくるさまざまな仕組みやルールに対して、まずはそれを身に着けて、同一化することは、かつては選択の余地のない、前提条件だった。おおげさにいえば、人類は長くそうやって生きてきたのだと思う。様々な挨拶を使い分けるような複雑なルールも、それが上手か下手かという自覚はあっても、めんどうで疲れるからやめてしまおう、という声が表立ってあがることはなかったはずだ。

個人の欲望が社会の原理となり、個人の合理的判断や各自の感覚が価値基準として尊重される時代には、あらゆる社会的なルールが、個人にとって「疲労」の源泉になる。学校への通学がもちろん、デートだって、楽しいばかりではないルールに縛られたものと感じられてしまう。

かつて内田樹は『下流思考』(2007)の中で、「不快貨幣」という概念を提唱していた。中学や高校での生徒たちの「これ以上だらけた姿勢を取ることは人間工学的に不可能ではないかと思われるほどのだらけた姿勢」での動作の背景に、不快や疲労をアピールすることが、自分を有利に導くという力学が働いているのだと分析する。明晰な内田にしては、やや難しい理屈だった。もっと単純に、不快や疲労の慢性化という事態で説明した方がわかりやすかったかもしれない。

ここまで書いて、僕もだいぶ疲れた。と疲労アピールをして、出来の良くない短文の言い訳とすることにしよう。