大井川通信

大井川あたりの事ども

羽田信生先生のこと

今年も、近所の浄土真宗の勉強会に、米国から羽田信生先生が講義に来られたので、公開講座に参加した。8年前に初めてお話をうかがってから、講義を聴講するのは5回目になるが、そのつど強い印象を受けた。仏教徒でもなく、宗教についても門外漢の僕が、仏教を身近に感じられるのは、羽田先生との出会いのおかげといっていい。

たいていの日本の仏教者は、経典や学問や寺院や宗派や儀式やらの関係にがんじがらめにされた場所で、各方面に気兼ねしながら言葉を発している気がする。偏見かもしれないが、しかしそれでは言葉はこちらに届かない。羽田先生には、単独者のおもむきがあって、自らが法や真理と向き合う場所から、ストレートに力強い言葉を投げかけてくる。

羽田先生は、大学時代に偶然、ある仏教者の著作に出会い、その力強さに引き込まれて、仏教の研究を始めたという。25歳の時に渡米して、以後47年間、仏教の研究と布教をおこなってきた。日本にある様々な後ろ盾が使えない場所で、英語という外国語を手段として、まったく文化的背景の異なる人たちに教えを説く、というのは想像を絶する困難な作業だろうと思う。真意を伝えるだけでなく、生き方まで影響を与えるということなのだろうから。

おそらく言葉がするどく研ぎ澄まされ、先生自身の存在と一体化することで、かろうじて他者のふところに飛び込んで、その心臓をつかまえることができたのだと思う。

今回の講演でも、羽田先生は、仏教の根本原理を、おどろくほどシンプルに切り出してみせる。ふつう簡単な整理は通俗的で浅薄になる。しかし、先生の言葉は、根本を煮詰めたように深く、生き生きとして鮮やかだ。

仏教の教えは、「私とは何か」という内省に尽きる。「苦」の生活から、内省によって自らの内なる「無常」に目覚め、「無我」の生活を開始する。その内容は、法と一つになり、大きな無限の命とともに生きることだ。そうして人生を完成させることだ、と羽田先生は力強く語りかける。これだけなのだ、と。

信仰の言葉として、つまり一人の人間が迷いの世界の中でよりよく生きるための道しるべとして、間然するところのないものだと思う。仏教徒ではなく、自称の哲学徒に過ぎない僕も、十分に咀嚼してみたい。