大井川通信

大井川あたりの事ども

『少女不十分』 西尾維新 2011

はじめから逃げをうつようだが、西尾維新という作家も、彼が描く作品のジャンルも、ほとんど何もしらない。おそらくジャンルによる特有の約束事や、楽しみ方のようなものがあるのだろう。それだけでなく、巻末の作品リストや、帯でのコピーから判断するかぎり、これは作者やジャンルの一般的な傾向を代表する作品ではないようだ。異色作ということになると、部外者にはなおさら作品のねらいがつかみづらくなる。

などと、作品の語りに伝染したように、優柔不断な書き出しになってしまった。一人称の語り手は、ああでもない、こうでもないと、自己分析と自己診断を重ねる。10年前の回想という設定だから、そこに現在の自分との比較が加わって、さらに言葉数がましていく。ひと昔前なら、「自意識過剰」と形容されていたが、今はそういう言葉は使わないのだろうか。

こういう語り手の、言葉数の多さや腰の決まらなさは、現在の何かのリアリティをすくい取っている気がする。読み手も、きっとわずらわしさ以上の何かを受け取っているのだろう。しかし、その「何か」は、今の僕にはちょっとうまく説明できない。

作家志望の大学生である語り手は、小学生の少女の交通死亡事故を目撃する。その場に居合わせた別の正体不明の少女によって、後日、彼は脅されて、少女の自宅に監禁される。その何日間かの少女と大学生とのやりとりが、例の水増しされた文体で語られていくのだ。

謎は二つある。一つは、この10年前の出来事が、彼を職業作家を続けることを可能にしたトラウマだと説明されるのだが、その理由は最後まで想像がつかない。もう一つは、少女の異常な行動の謎である。これは監禁生活の中で、次第に明らかになる。

第一の謎については、クライマックスでの説明にカタルシスはあった。そこまでの展開はややダレた感じもあっただけに、それは物語の救いになっている。第二の謎については、少女の造形が類型的に思えて、監禁の動機やふるまいについても納得できるものではなかった。ただし、この一見とっぴな類型性が、かえって子どもたちの現状や願望を反映しているのかもしれない。

僕がこの本を手にしたのは、仕事上話をした本好きの女子中学生が、面白かった小説として教えてくれたからだった。適応指導教室に通っていた彼女が、感情移入したのは、もちろん少女の方だろう。少女の視点に立てば、悲惨な環境に育った少女が、大学生との屈折した関係によって救われる話になる。

リアリズムを装っていたこの小説は、末尾のハッピーエンドの仕掛けによって、一気に作り物めいた物語の世界に転じることになる。ふつうの小説としては、どうかと思える結末だが、僕には、意外にこの転回が気持ちよかった。これが「物語の力」なのだろう。