大井川通信

大井川あたりの事ども

天邪鬼について

読書会の課題図書で、岩波文庫エドガー・アラン・ポー(1809-1849)の短編集を読む。『黒猫』『天邪鬼』で展開されている「あまのじゃく論」が新鮮だ。これが他の諸短編を貫いており、全編「天邪鬼小説」として読めるのではないか。

新鮮さの由来は、天邪鬼(してはいけないことをしてしまう)を「人のもっとも原始的な衝動」としながら、あくまで形式的、表面的にながめる視線である。現代の思想ならば、個人の人格の問題として抑圧された内面に原因を求めたり、トリックスターの振る舞いとして社会の活性化を真の動因としたり、いずれにしろそこに「深さ」を見てしまいがちだ。

形式的な視線ゆえに、作者は天邪鬼の具体例として、話し相手や小動物にたいする意地悪、締め切りを遅延する衝動や高所からの転落の誘惑など、ささやかでリアルな場面を描く。これは観念ではなく、飲酒癖と虚言癖をもっていたというポー自身の実体験なのだろうが、今の僕にも驚くほど親しみのある光景だ。

『ウイリアムウイルソン』における、一見深刻な分身現象も、自身の成功をはばむ天邪鬼と解することができるし、『モルグ街の殺人事件』におけるオラウータンも、動機なく日常をかく乱する天邪鬼そのものと見ることができるだろう。

『黒猫』『裏切る心臓』『天邪鬼』では、「隠さないといけないのに思わず明かしてしまう」という天邪鬼が主人公を破滅を招くが、『盗まれた手紙』では、「隠さないといけないものをあえて表にだす」という天邪鬼を、犯罪者が意識的な手口として利用している。いずれにしろ、天邪鬼的形式をとった作品が多いのはまちがいないだろう。