大井川通信

大井川あたりの事ども

『英国諜報員アシェンデン』 サマセット・モーム 1928

ちょうど一年前から、小説を読む読書会に参加するようになった。月に一冊とは言え、小説を手に取る機会をえたのは大きい。ついつい批評家気どりで、理屈をあれこれつけることに夢中になってしまうけれども、純粋に楽しんで読める作家にも出会うことができた。

モームは、文庫本で4冊目になるが、どれもはずれなく面白く、読むのが遅い僕でも、数日で一気に読み切ってしまう。身体の奥に眠っていた(10代の頃の)物語の世界にひたる喜びを呼び覚ましてくれるみたいだ。

スパイ小説という先入観があったのだが、ほとんどそれらしくはない。作家本人をモデルにした作家兼諜報員の主人公の眼を通して、次々に特異な人物の肖像が描かれる。戦争や事件は背景であって、作家が目をこらすのはあくまで人間なのだ。

エジプトの王子に長年使える老婦人ミス・キングの胸の内にある祖国イギリスへの思い。母国メキシコでの革命の夢と女性への愛を雄弁に語る殺し屋へアレス・メキシカン。高潔なインド独立の闘志が、平凡なイタリア人の踊り子と愛し合ったために、英国のワナにはまって命を落とす顛末。ドイツ人の妻を愛するあまりに、母国を裏切る諜報活動を行い、危険な任務で身の破滅をまねくイギリス人記者。英国大使の上流階級の外交官としての理想的な姿の裏側にある、粗野な曲芸師の女を一方的に愛した過去。シベリア鉄道の旅を同行したアメリカ人ビジネスマンの一本気で愛すべき性格がもたらす悲喜劇、等々。

これらのキャラクターが、第一次大戦中の世界情勢、中でもロシア革命勃発時の諜報活動を舞台として描かれる。もっとも、詳細なキャラクターの描写に対して、政治的な事件や情勢については、一筆書き程度の説明しかない。作家はこの現場に立ち会っていたにもかかわらず。だからこの小説に歴史を読もうとすると、やや物足りないかもしれない。