大井川通信

大井川あたりの事ども

内省と「無限の命」

先月、羽田信生先生の講演を聞いて、こんなことを書いた。

仏教の教えは、「私とは何か」という内省に尽きる。「苦」の生活から、内省によって自らの内なる「無常」に目覚め、「無我」の生活を開始する。その内容は、法と一つになり、大きな無限の命とともに生きることだ。そうして人生を完成させることだ、と先生は力強く語りかける。信仰の言葉として、つまり一人の人間が迷いの世界の中でよりよく生きるための道しるべとして、間然するところのない言葉だと思う。

しかし実際のところ、一介の自称哲学徒としては、先生の言葉につたない注釈をつけてみたい誘惑にかられる。

人間が、生活の苦しみを認識し、内省を行うようになったのは、そもそもなぜなのか。はたしてそれはよきことなのか。それは、他の生物がもつ、自然と一体化して生きるための本能が、何かの理由によってこわれてしまったために、自我という本能の代理物をつくったためだろう。(あるいは、自我という代用品に頼りすぎたために、本能が壊れてしまったという順番なのかもしれない) 本能とは違って不安定で穴だらけの自我は、その欠落を、様々な問いで埋めるようになる。「内省」はやむを得ない、強いられたものなのだ。

さらに人間は様々な制度をつくりあげて、なんとか自然をコントロールして集団で生きていけるようにした。だから、たしかに自我も、文化も、制度も、神や国家も、便宜的な固定枠であり、出来損ないの杖にすぎない。それにとらわれることを嘲笑することはできるだろう。しかし、それらを取り払ったところにある「大きな無限の命」とはいったい何なのか。

他の生物のように自然と調和して生きる能力は失われているから、「本来の自然」というわけではないだろう。では、調和を失った人間的な自然なのか。たしかにそれは、適切なコントロールの下では、新たな富を蓄積し新しい芸術作品を生み出すなどの創造的な力を発揮するかもしれない。生き生きとした生き方を可能にするかもしれない。

しかし一歩間違えば、破壊と暴力をまねくことは歴史が示すとおりだ。まして自我や文化のタガがはずれて、完全に流動化した人間的自然は、混乱と狂気にいたるほかないだろう。

「大きな無限の命」とは、不調和な人間的な自然という現実に、失われた「本来の自然」という理想像を投影した虚構ではないのか。