大井川通信

大井川あたりの事ども

吉本隆明の講演会

講演会で、吉本の話を二度聞いたことがある。1985年に、初めて吉本の姿を見たときの印象は強烈だった。マイクの前にたったのは、いかつい職人のような男で、話し始めても、語気が強くまわりくどい例の語り口だったから、これがあの吉本隆明なのかとあてがはずれたように思ったのを覚えている。

テーマは、「高度資本主義とは何か」というものだったが、経済のデータを使いながら、地味にそれを解説していくもので、「未知の超資本主義」というような大仰な言葉使いをのぞけば、内容に特別な新鮮味があるものではなかった。

ただ、これが吉本らしさなのだろう、と納得できるところもあった。彼は、個々のデータをてがかりにしながら、全体的な社会のイメージを作り上げるプロセスを語ろうとしていた。そして、聴衆に対しても、各人がそれぞれに社会のイメージを作ることをしきりに促していたのが、耳に残っている。

しかし、当日何より驚いたことが別にある。この講演はその後単行本の講演集に収められたが、本からこの驚くべきことは読み取れない。多くの吉本論からも伺い知ることができない事実だが、意外に吉本を理解するうえで大切なことのように思うのだ。

講演では、経済白書から10枚近い図表を用意していたのだが、それらはすべて模造紙にフリーハンドで書かれたものだったのだ。グラフも表も歪んでいて、目盛りは目分量でつけているため間隔がまちまちだ。近代的な大ホールの数百人の聴衆に対して、手書きの模造紙を広げて説明する吉本の姿は、異様だった。

もちろん、パワーポイントなどない時代だったけれど、スライドぐらいはあったと思うし、何より定規を使わない理由がちょっと想像できない。

僕が吉本を読むようになって以降、反核や反原発への批判やオウム真理教麻原の擁護など、なにかと吉本の発言に注目があつまり、それらをいぶかる声も多かった。しかし、その背後には、あの吉本が間違えるはずがない、という「無謬神話」や、吉本は「戦後最大の思想家」という思い込みがあったような気がする。

大ホールの聴衆の前に、まったく悪びれることなく、手書きの歪んだグラフを提示できる前時代の風変りなオッサン、というのが吉本の真の姿である気がする。もちろん、このオッサン、大変なオッサンなのではあるが。