大井川通信

大井川あたりの事ども

LGBT(性的少数者)をめぐって

職場でLGBTについての研修会があった。こうした場で当時者の話を聞くのは何度目かである。そこでの、ざっくりした印象。

僕は80年代前半の学生の時に、東京郊外で、「障害者」自立生活運動とかかわりをもった。90年代以降は、被差別部落の運動と断続的にかかわりをもっている。00年代以降、「障害者」の親として学校や社会とかかわりをもってきた。

日本社会は、差別の問題については陰湿な村社会で排他的である、という考え方もあるし、それはかなりの程度事実だろうと思う。そのために、差別をめぐる運動も、どうしても過度に告発的となったり、社会自体の悪い面の写し絵となってしまう場面もあった。そのなかで試行錯誤の歩みをしてきたのだろうと思う。

LGBTが新しい人権問題として注目を集めるようになったのは近年だ。文化や個人の感覚の根っこに触れる問題だけに、解決には相当に大変はプロセスが必要だろうと漠然と感じていた。実際に現場では、当事者をめぐる困難にほとんど手がつけられていないような状況だろう。

にもかかわらず、社会の表面的な動きだしは、想像以上にスムースである気がするのだ。企業や行政の表向きの対応が、社会の内実の変化を置き去りにして、やたらにスマートであるように感じられる。

若者の文化の変化やグローバリズムの影響などで、性の問題についてのハードルが下がってきているのかもしれない。しかしそこには、もっと根本的な社会の在り方の変更があるように思えてならない。

かつて、差別をめぐる運動は、正義の実現を目指していた。正義が実現していない現状は不正義と断定されるから、どうしても、社会内部の対立をあおる結果となった。善と悪。味方と敵。

今、社会は流動的となり、新たなニーズを発見して、そこで価値を生み出すことに血道をあげるようになった。そうした企業の動きに行政も追随する。新しいニーズに対応して乗り遅れないようにする振る舞いが、いわば正義となる。

LGBTの問題は、社会のあらたなニーズの提起という文脈に上手くはまっているような気がする。この問題にいちはやく対応することが、企業の市場価値を高める、というふうに。「障害」の問題も、学校教育の中では、新たな支援(ニーズ)に必要な対応ということで、かつてよりかなり前向きな動きがみられるようになった。

そこにもはや正義の看板はない。しかし歴史を振り返ると、その看板の下にずいぶんいい加減でひどいことも行われてきたのも事実だ。しょせん不完全でこわれものとしての人間、是々非々で前にすすんでいくしかないのだろう。