大井川通信

大井川あたりの事ども

『ビルマ敗戦行記』 荒木進 1982

亡くなった父の蔵書には、文学書のほか、昭和史や戦争に関する記録が目立つ。実家をたたむので、僕も思い入れのある詩集などを持ち帰っていたのだが、今回ちょうど吉本論を読んでいたせいだろうか、戦争体験の手記が気になって、何冊かもちかえってみた。こんな偶然がなければ、古本屋にまとめて処分されていたことだろう。

子どもの時に、父親から軍隊の話は繰り返し聞かされていた。当時は戦争のドキュメンタリー番組なども多く、かかさずそれも見ていたので、日本軍の話は食傷気味だったのだ。しかし、両親も亡くなり、世の中の世代交代がこれだけ進んでいくと、戦争体験を聞かされて育ったのは貴重な経験だったことに気づく。と言っても、断片的な情報ばかりが耳に残っており、通史的、体系的な知識があるわけではない。それを補いたい、という気持ちがでてきた。

この書は、敗戦後30年以上経ってから、はじめは著者が家族と自分のために書いた戦争の記録を、岩波新書から出版したものだ。出版に際しては、「一兵隊の生活感覚」を記録した類書がないことを動機にあげている。

著者は大正3年(1914年)生まれで、昭和19年の6月に3度目の召集令状を受けて、若い妻と生まれたての長男を日本に残し、敗色濃厚な激戦のビルマ(従軍33万人の内19万人が死亡という)に送られる。そこで「帝大出の一老兵」として、約1年間の敗走の記録と、敗戦後21年6月に帰還するまでの捕虜生活の記録が主な内容となっている。

著者は戦後大企業の重役を勤め、ビジネス書を執筆している社会的な「成功者」であるが、その彼がなぜ戦後30年もたってから、最下層の兵隊だった当時の生活記録を出版したのか、なぜ彼が類書がないことをなげいたのか、なぜこの著書が版を重ね、父親の数少ない蔵書の一部となったのか等々、いろいろ想像は膨らむが、言葉にするのは、もう少し知識を蓄えてからにしよう。

20艘の輸送の船団のうち、敵軍の攻撃を免れて無事戦地に着いたのは著者の乗る一艘だけだったが、たまたまその船が魚雷を交わす操船がうまかったからという理由もすさまじい。

運悪く招集されて死を免れない自分の境遇を、理屈ではどうしても納得できなかったが、何かの折にフッと吹っ切れて、動物のように何も考えなくなり、兵隊として強くなったという経験は興味深い。

宿舎を提供してくれたビルマ人との交流等も書かれていて、著者の人柄からか抑圧や支配をうかがわせる記述はない。しかし、当時は大前提だったのだろう他国での軍事行動という事実が、今の時代には、どうしようもなく倒錯して正義に反したものとおもえてしまう。その前提にのっている著者を批判的な目でみてしまう。

イギリスによる捕虜生活は、比較的穏やかなものとして描かれている。軍隊には大工も職人もいて、英兵の要求する小屋も家具やモーターボートまで作ってしまう話。著者は刀研ぎの技術を磨いて、身を立てる。楽器をつくり、楽団ができる。演劇関係者もいて、演芸大会では歌舞伎や現代劇の芝居も上演する。見事な女形を演じる兵隊もいたそうだ。

厳しい軍隊生活を通じて、著者は、「手職においても、体力においても、世間的な気配りにおいても、私は至って取り柄の少ない人間であった。少々学があるくらいで、そんなことは人間の値打ちにはあまり関係がない」という認識に達する。彼が庶民である「一兵士」の視点にこだわるのは、おそらくその認識を終生持ち続けたためだろう。