大井川通信

大井川あたりの事ども

坂口安吾の短編を読む

読書会の課題図書で、岩波文庫安吾の短編集を読む。以前柄谷行人安吾の再評価をした時、評論を読んで、なるほど面白いと思っていた。しかし今小説を読むと、『風博士』『桜の森の満開の下』『夜長姫と耳男』などの一部の特異な作風の作品をのぞいては、あまり読めたものじゃない、というのが正直な印象だ。

確かに『白痴』は空襲下の生活を簡潔な文体で描いて、独特の緊張感がある。しかしその内容たるや。

文化映画の演出を仕事とする主人公は、職場の同僚たちや近所の住民の俗物性を徹底して軽蔑している。女は欲しいが、生活にとりこまれたくない。そこへ近所の屋敷の「気違い」主人の「白痴」の女房が逃げ込んできたのをいいことに、家に隠しおいて関係をもつ。主人公は、彼女を、無自覚な肉欲とあさましい死への恐怖しかない(虫!以下の)存在と断定するが、それは自分の身勝手な行為のうしろめたさを押し隠すためだろう。実際彼は、露見をおそれて戦火で彼女が死ぬのを願う。空襲の猛火におわれ、二人で逃げまどう際に彼女の「意志」に気づいて猛烈に感動したのもつかのま、翌朝には「豚」扱いに戻る。

知的障害のある女性への自分勝手で冷酷な視線は、主人公というよりむしろ作者自身のものと感じられて、寒々とした気持ちにさせられる。人道的に見て問題だ、ということをいいたいのではない。単純に人間を見る目が浅すぎるのだ。

この作品につづく『女体』『恋をしに行く』『戦争と一人の女』『青鬼の褌を洗う女』等の作品で語られる女性観、人間観は相変わらず稚拙なものだ。女性に対して、肉体か魂か、肉欲か貞操か、妖婦か処女か、という恐ろしく俗な二元論で押し通そうとするものだから、ごねごねと理屈っぽいわりには、何一つ新しい発見も認識もでてこない。

読書会では、こんな批判めいた感想を話したのだが、何人かの参加者から共感を得られたのは心強かった。