大井川通信

大井川あたりの事ども

「美 つなぐ 香椎宮」展 2018

神社という場所に関心があるので、そこで現代美術にどんなことができるのか、期待があって出かけてみた。しかし思った以上に現代美術の作品が無力な印象を受けた。ちょっと残念だった。

勅使館という施設の座敷や庭園という閉ざされた空間の中で展示されていた作品は、それぞれ意図した力を発揮できていたとは思う。しかし、神社の境内という大きな空間を背景におかれた作品は、境内の強い磁場に飲み込まれて、かすんだ印象しかなかった。その理由を考えてみる。

西日本新聞の展覧会評に、「日本人が昔から慣れ親しんできた神社が、アートの力で非日常へと反転していた」とある。これはとんでもない錯覚であり認識不足だ。神社という場所が、特に現代人にとってはいっそう筋金入りの非日常の場所なのだ。街角や公園といった日常の場所を「異化」するのとは、まったく別次元の試みでなければならない。しかし作家たちも、この記者と同じような錯覚を共有しているように思える。

たとえば、参道の途中に見事な楼門があって、境内の内外を仕切っている。これは千年にわたる木造建築の高度な技術の集積の下に、優れた造形感覚を用いて、資力と人力を結集してくみ上げられたものだ。

楼門の前に美術家の造形作品が置かれていて、作家のコメントを読むと、「聖域の内と外を繋ぐことにより歴史と文化・過去と現在を表現」とある。しかし、それと同じことを圧倒的な存在感で既に実現しているのが、目の前の楼門なのだ。言葉は悪いが、二番煎じの小さな個人作品が新たな意味を表出する余地がない。

重要文化財の重厚な本殿の脇には、直立させた木材に絵を描いて周囲を木の枝で囲んだ作品が置かれているが、チープな印象は否めない。作者の説明書きがあって「寛容」をテーマにしているとのこと。

ちょうど七五三の時期で、着飾った幼児たちが本殿に詰めかけているが、この神社自体が千年にわたって、様々な信仰や権力や習俗を受け入れて(今は現代美術すら受け入れて)生き延びてきた「寛容」を力学とする場所なのだ。ここでもやはり年季の違いを感じてしまう。

境内には神木を含む様々な樹木等の自然が取り込まれており、時の経過と変容が表現される仕掛けがある。あちこちの石碑や石像には様々な時代の文字がきざまれている。作家たちがテーマとする「歴史」や「自然」や「言葉」といったものが、はるかに徹底した形で空間化され、現に運動を続けているのが神社の境内という場所なのだと思う。

この場所は、僕たちの日常を取り込みつつ、それを異化し再構築する強い磁力を持ち続けている。個人のコンセプトに頼る現代美術の作品の旗色が悪いのも仕方がないだろう。