大井川通信

大井川あたりの事ども

『九州男児劇 せなに泣く』 田上豊 作・演出 2018

2時間以上の芝居だったけれども、飽きることなく最後まで楽しむことができた。観劇後の満足感からも、とても上質な舞台だったのは間違いない。台本も役者も演出も、さまざまな面で水準を満たしているのは、素人の僕でもわかる。ただ面白い舞台と言うだけでは納得できない何かを感じる。それはなんだろう。

ストーリーについて。養護施設のような私設の寮で暮らす5人の少年たちの30年にわたる物語。小学校時代は、こわもての寮長におびえながら、上級生からの暴力や同級生からのからかいに立ち向かいつつ、たくましく生活する。中学生になって荒れだした彼らには、寮長の手にも負えなくなる。修学旅行のエピソードでは、仲間の一人Aが母親の死によって再会をはばまれ、もう一人Bが清水の舞台から転落して死亡する。やがて彼らは社会人となる。寮長が去った後に寮を引き継いだCのところに、Bの盆供養のために小説家デビュー目前のAと、仕事を次々に替えて霊感商法に手を出したDが戻ってくる。死んだBの弟Eは自閉症でゴミだらけのアパートに引きこもっているが、そこを訪ねたAのタバコの火の引火で爆発を起こし、Aは死亡し、Cは失明してしまう。やがてDも身体をこわし、霊感商法のツボ売りの口上の途中で死んでしまう。

物語の冒頭は、寮に残された二人(失明したCと口の聞けないE)の下に、役人が生活保護申請を断りに来るところから始まるのだが、以上のストーリーはCの回想という形をとっている。寮でCは倒れ、舞台上は三途の川を挟んで、死んだ3人の仲間と死にかけたCとの緊迫したやり取りとなるが、3人の励ましにもかかわらずCは死ぬ。やがて、寮は取り壊されることになり、Cが口述していた寮の物語のテープをEが一人で書きとっている姿を残して、物語は閉じる。

ストーリーだけ見ると、九州男児の要素は見当たらない。孤児の仲間が次々と死ぬまったく救いのない物語だ。彼らをとりまく友だちや役人の対応も、義理人情を感じさせない冷酷なものだ。しかし、ストーリーの極端な冷酷さが気にならないのは、この不自然なストーリー展開によって、実際に舞台上に魅力的な場面が実現しているからだろう。

各人の死亡事故は切迫した場面になるし、生死を隔てた仲間同士の邂逅の場面はダイナミックだ。自閉症のEが一人残される場面は感傷を一気に高めるだろう。

僕は実は、小劇場の舞台でありがちな、役者同士が大声でどなりあうシーン、コントのようなギャグで笑いを取るシーン、エロネタで盛り上げるシーンが苦手だ。この芝居にもそういう要素があったが、力強い場面展開の前に、ほとんど気にならないレベルだった。

つまり、ストーリーは、魅力的な舞台を作り出すための部分的な要素であって、演劇においてそれ自体で評価されるものではない、というある意味で当たり前の事実を確認したわけである。この芝居への違和感があるとしたら、それをあまりに露骨にやりすぎているということかもしれない。おそらくそのために、現実とは別の世界を開示する本来の芝居の力が弱くなっている感じがする。

ところで、SNSでは、かっこいいという評が多かった。地元ではすでにベテランの役者たちが、全力で演じる姿に魅入られたのだろう。役柄とは別に、役者自身の背景を直接に読み取っているのだ。だから、救いのない孤児芝居が、熱い九州男児劇(役者全員が九州人)として成立するのだろう。演劇とは複雑な装置だとあらためて思う。

舞台上には、への字型に曲がった2つの大きな壁があって、一方の面を合わせると屋内、別の面を合わせると屋外の場面になるというのは面白かった。この壁の回転が回り舞台のような効果を発揮する。公園の有刺鉄線や清水寺の舞台など、ごく部分的な道具で象徴的に場面全体を示す技法が優れていて、舞台上の役者たちが全力で、舞台装置を回したり移動させたりする姿もエネルギーがみなぎっていて心地よい。小学校の選挙シーンや霊感商法の口上のシーンで、役者が観客席に直接話しかける場面もいいアクセントになっていた。ゴミだらけのアパートに夜訪問するシーンはリアリティがあって美しかった。どれも演出家のすぐれた技術と感覚をうかがわせるものに思えた。