大井川通信

大井川あたりの事ども

『ことばと文化』 鈴木孝夫 1973

こうした良質な日本語研究の本(といっても僕が手に取るのは入門書の類だが)を読むたびに、いつも感じることがある。

まず、自分が当たり前に使っている日本語の構造や特色について、まったく目からうろこが落ちるような思いをさせられるということ。つぎに、少なくとも日本語については当事者であり、ちゃんとした現場をもっているのだから、その研究をする権利があるし、そうすべきだということ。まして、心の片隅にでも批評の看板をかかげているのであれば、なおさら。

と、思いつつ、日本語の日常的使用の安逸の海におぼれていってしまうのがいつものことなのだが、今回はぜひ例外にしたいところだ。

例えば、公園で泣いている幼児がいるとして、「おにいちゃん(おねえちゃん)、どうしたの?」と話しかけるのは自然だろう。しかしこの著者に指摘されてみればなるほど、一筋縄ではいかない理屈と背景があることに気づく。

まず、①彼(彼女)とは当然家族ではないのだから、家族に使う呼称を用いるのはおかしい。そこは飛ばすにしても、かなり年下の他人になぜ年長の兄弟の呼称を用いるのか。いや、②母親なら自分の子どもを「おにいちゃん」と呼ぶことは普通ではないか。しかしその場合、確実に年下の兄弟が存在しているだろう。③公園でたまたま見かけた幼児の兄弟関係は不明であるはずなのに、かってに捏造するのはなぜか。

①は、親族名称の虚構的用法。②は、親族名称の(家族の最年少者を基準とする)他者中心的用法。③は、②を虚構的最年少者を基準として実施しているもの。といった説明が続く。

この本の初版は1973年で、現在に至るまで版を重ねている。僕の大学時代にはもうあった本だ。学生時代は、言語学といえばソシュールで、パロールやラング、シニフィアンシニフィエなど意味ありげな翻訳語を振り回して、何か高級な事が理解できたと勘違いしていた。こういう本を読んで、自分の舌先から出て来る言葉の不思議について、しっかり考えることのほうがずっと重要であったのに。