大井川通信

大井川あたりの事ども

詩の朗読会にて

すでに英文で三冊の詩集をもち、今春初めて日本語の詩集を出す髙野吾朗さんの出版祝賀会を兼ねた詩の朗読会に参加する。出版元の花乱社の一室に詩人の声が多様に響き渡るすばらしい会だった。僕も以下の文章を持参して、祝意を示した。表題は、「髙野吾朗さんの詩はなぜおもしろいか?」

 

この夏に、読書会で現代詩の本をとりあげて報告した。その時、手もとの詩集をまとめて読んでみたのだが、いわゆる有名詩人でも、心にひっかかって読み返してみたい作品の割合は、プロ野球の選手の打率よりも低いことを発見した。1割、2割が当たり前で、3割を超えて4割となると、ほとんど稀な才能ということになる。(もちろん、読者によって突き刺さる作品はそれぞれ違ってくるだろうが、この比率自体が大きく変わるとは思えない)
しかし、これでは読み手にとんでもない忍耐を強いることになる。現代詩がほとんど読者をもたない理由がわかる気がした。
読書会の掲示板にアップされた髙野さんの詩27編を同じ基準でチェックすると、僕にヒットしたのは16篇。およそ6割の超高打率だ。これなら、おそらく多くの読者がたやすく自分の好きな作品を見つけて、詩を楽しむことができるだろう。今回の朗読会のために、ある参加者は、全作品の採点を行い、レビューを書いたという。ふだん現代詩を読まないという彼女がそんな作業に没頭できたのは、髙野さんの詩が特別におもしろいからだ。

僕も、髙野さんの詩の秘密をさぐるべく、一覧表をつくって分析をおこなってみた。表の上段には、僕が詩を読む時に心惹かれる要素を並べている。魅力的な「舞台」が突如出現して、特徴のある「キャラクター」が登場する。詩の「展開」で大切なのは、予想外の「飛躍」と、脈動する「リズム」だ。どう終わるかという「終末」もないがしろにできない。
できあがった一覧表をみて気づくのは、髙野さんの詩には、どの作品にもこれらすべての要素が入っていることだ。これらの要素を備えた詩は、すくなくとも読者を置き去りにすることはない。一方、難解な現代詩の多くは、意識的にこれらの要素を欠落させたり、軽視したりしている気がする。なるほど、そうすれば先鋭で個性的な言葉の世界が立ち上がるにちがいない。しかし、そんな消去法だけが、詩を生み出す方法なのだろうか。

読書会の帰り、タクシーの中で髙野さんからこんな話を聞いたことがある。マスコミ勤務を経験した髙野さんは、読者に伝わることを条件として詩を書いているが、それが弱点と指摘されることもあると。
舞台にキャラクターがいて、展開と終末があるというのは、考えてみれば、僕たちが生きる世界の構造そのものである。この世界の似姿だからこそ、僕たちはそれを理解することができる。安易に似姿を作れば、それは「通俗的」ということになるだろうが、その条件のもとに、魅力的で新しいイメージや飛躍やリズムを盛り込むことで、真の意味で独立した詩世界を構築することができるのではないか。

髙野さんの詩は、精緻な言葉の断片であることをこえて、世界の全体に相渉ろうとしているように思えてならない。