大井川通信

大井川あたりの事ども

『書記バートルビー』 メルヴィル 1853

読書会の課題図書で、光文社古典新訳文庫の『書記バートルビー/漂流船』を読む。 日本で言えば黒船来航の頃の作品だし、文豪の書いたものだし、正直あまり期待していなかった。しかし、二作品とも、予想をこえて読み物として十分に面白かった。

設定もシンプルで、次々に面白い展開があるというわけでもない。しかし、飽きることなく読み進めることができたのはなぜなのだろう。

法律事務所で雇われたバートルビーは、初めは、真面目に仕事をこなしているが、やがて雇い主の弁護士の指示には一切従わなくなり、事務所に居座ってしまう。

漂流船を救助するべく、単身乗り込んだデラーノ船長は、船内の異様な雰囲気に気づきながらも、持ち前の善意で危機を乗り切っていく。

両作品の背景には、資本主義経済の発達や奴隷制度等への批判があって、それが骨太の作品を作っているのはまちがいない。あくまで主役は、驚くべき拒絶の意志を示す書記バートルビーであり、船の実権を握る従僕のバボウであるだろう。ただし150年以上前の作品を生気に満ちたものにしているのは、黒子である語り手の力であるような気がする。

『書記バートルビー』における語り手の弁護士と、『漂流船』における観察者であるデラーノ船長。この二人は、他者に対する寛容さと細やかな善意にみちている。一方で彼らは、自分自身にたいしては冷静な観察者であり、自己評価は高くはない。しかしこの謙虚さに騙されてはいけないだろう。
バートルビーの頑なさや漂流船の惨状は、彼らの寛容や善意に対して試練を与えるために生み出されているかのようだ。