大井川通信

大井川あたりの事ども

「闇綱祭り」 諸星大二郎 2013

昨年出版された『雨の日はお化けがいるから』所収のこの作品は、発表の雑誌で読むことができたから、該当ページをとりはずして保存してある。初期の頃のような、シンプルだけれども力強いイメージ。正直、今でも新作でこれだけのものが読めるのかとうれしかった。

冒頭から「均衡」という言葉が繰り返し語られて、文明論的な視点がテーマであることを暗示させる。大きなテーマを扱いながら、それを単なる理屈ではなく、独創的なビジュアルに落とし込むところが、諸星作品の真骨頂だ。

この作品では、それが社殿の半分だけで存在するという片身神社の異様な造形として、成功している。祭りの夜にだけ社殿のもう半分が現れて、闇の世界の住人たちとの綱引きが行われるが、それは儀式として引き分けに終わらないといけない。これが均衡ということだ。アクシデントからこちらの世界に引き込まれた闇の住人の、異類のような不気味な容貌がこわい。

綱引きの儀式が失敗し、闇の世界に飲み込まれた町の大半は、爆撃にあったように半円形にえぐられて消失してしまう。他界との均衡、自然との均衡を失った世界の、これも見事なビジュアルである。

先日、地元であった星野之宣さんのトークイベントに諸星さんがお忍びで参加して、食事会等で同席することができた。あれだけの作品を生み出しながら、文化人や知識人のような様子や口ぶりは微塵もなく、終始ニコニコと気さくにふるまう二人の姿には頭が下がった。作品の中ですべてを表現しつくしているということだろう。

大井川歩きとの関連で二人の作品を読む、という宿題が残ったのだが、とくに手薄だった星野作品の読みにとりかからないといけない。星野さんの作品は、自在なストーリー展開の中核に人間がしっかり描き込まれているのを感じる。一方、諸星作品は、同様のテーマを扱う場合にも、むしろ人間ではない側にこそ目をこらしているようだ。だからそこには、異様であるがゆえにリアリティのあるイメージが登場するのだろう。

闇綱引きの失敗によって、半円形にえぐり取られてしまった町のイメージ。これに近いのものが、大井川流域にはある。平知様のホコラがまつられた里山の稜線から向こう側はざっくりと削り取られ、ソーラーパネルが並べられている。確かに原発よりは安全な自然エネルギ―ではあるだろう。しかし、それすらも「均衡」を失ったものであることは、里山の無残な姿を見れば明らかだ。