大井川通信

大井川あたりの事ども

大本教と八龍神社(その2)

大本教と大和良作、栗原白嶺との関係を簡単な年表にしてみよう。

・大正10年(1921年) 第一次大本事件

昭和7年(1932年) 大和良作、栗原白嶺と共著出版。

昭和9年(1934年) 大和良作の主導で地元に八龍神社建立。

昭和10年(1935年) 12月第二次大本事件 翌年までに987人が逮捕。

昭和11年(1936年) 3月栗原白嶺、独房内で縊死。11月大和良作死去(57歳)

良作氏は医学博士として社会的地位が高く、昭和7年大本教の幹部との共著もあるくらいだから、教団内でも重きをなしていただろう。昭和10年の第二次大本事件の直前まで、教団は飛ぶ鳥を落とす勢いだったというから、この三年ばかりの間で、良作氏が信者を辞めていたとは考えにくい。何より、大本弾圧のさなか、栗原白嶺と同じ昭和11年にまだ57歳という若さで死亡しているのが、大本とのかかわりを推測させられる。1000人近くの逮捕者を出した弾圧の中で、幹部との親交のある良作氏が逮捕を免れるということは、ちょっと考えにくい。

そこで、図書館から『大本資料集成』という分厚い三巻の資料集を借り出してきて、端から丹念にめくってみた。機関誌への投稿者ばかりでなく、本部への訪問客の記録まで探してみたが、どうしても大和良作の名前を見つけることができなかったし、弾圧の関連で死亡した信者の記録にものっていなかった。

ここからは想像をたくましくするしかない。なぜ、80年も経った今、当事者のひ孫が他人からの聞き取りで、すぐその名を出すほど大本教の名前が頭に残っているのかということだ。良作氏の大本教との関係がもともと薄かったり、弾圧前に抜けていたりしたのなら、大和家の人間にそこまでの印象を残すだろうか。

戦前の大本弾圧は大事件であり、大和家の出世頭の良作氏がその関係で命を落としたとしたら、大和家にとっても一大事であり、まったく不名誉な事だったにちがいない。信者は全国で国賊扱いされたという。しかし10年もたたずに敗戦となり、大本教の名誉も回復されることになる。ちょうど共産党幹部の獄中18年が輝かしい経歴となったように、戦前に弾圧されたことは、むしろ正義の証となったのだろう。

だから、戦後の大和家にとって、良作氏と大本教のことは、良作氏の冥福のためにも積極的に語り伝えられたのではないか。この推理が正しいとすれば、良作氏は、やはり逮捕や投獄と直接関係なくとも、それが原因で体調を崩しての死去やあるいは自死だったのだろうと思う。

ところで、大本教の文献をめくりながら意外に思ったことがある。大本教の信仰の内容が、当時の天皇中心の国家神道そのものであって、むしろそれを過激化したものだったことだ。弾圧されたイメージから、天皇国家神道への批判の要素をもっているものと勝手に思い込んでいたのだ。

当時は、政財界や軍の内部に信者を得て急速に勢力を伸ばしていて、国家神道の有力な一派だったのである。弾圧の理由は、国家の側からの近親憎悪だとも、左翼を壊滅させた警察組織が次に選んだスケープゴートだとも言えるだろう。

龍神社の鳥居に刻まれた「敬神尊皇」の文字や拝殿に掲げられた明治天皇の和歌は、当時の大本教の思想そのものだ。だとしたら八龍神社は、大本教の直属の機関でこそないけれども、大本教の精神をもって建立された神社であるといっていいのかもしれない。