大井川通信

大井川あたりの事ども

一者対多数のコミュニケーション

今年度から教育系の大学で専任講師をしている友人が地元に戻ったので、久しぶりに会って話をした。とびきり優秀な小学校教師だった彼は、大学という職場でも、新しい環境を楽しみながら、研究に教育にフル回転している。若い友人の活躍というのは、本当に気持ちがいい。

彼が一年目の大学の講義で、模索している方法というのが面白かった。僕が理解した範囲では、それはこんなものだ。

学生に対して、あらかじめ講師の講義での教え方について批評的に見ることを要求しておく。そして講義の最後に、学生にその日の講義の教え方に関するコメントを提出させる。次回の講義の冒頭に、学生たちのコメントを紹介しながら、それを批評し解説する時間をとるのだそうだ。

前回の講義の教え方という形式面についての振り返りの時間は、徐々に長くなって最後には30分くらいになったそうだ。ただし、学生に聞くと、この冒頭の講義が抜群に面白く、人気が高いのだという。

おそらく、こんな講義をしている大学教師は彼くらいだろう。このオリジナルの方法をおこなうためには前提がある。まず、教え方について、講師に様々な手法と技術の蓄積があり、それについて開かれた議論ができる姿勢と準備があることだ。と同時に、本来の内容の講義を、毎回圧縮した時間で教える技術がないといけない。これを普通の大学教師に求めるのは酷だろう。

教育が厳しいと言われる地域の学校と大学の付属校での研究主任の経験をもち、研究授業の経験が豊富な彼ならではの手法といえるかもしれない。しかし、教育を教えるということで、とても大切な何かをつかんだ方法という気がする。学生もそれを察知しているから、人気が高いのだろう。

今日の話の冒頭、教育学とはなんでしょうね、という話題になった。彼によると、他の分野からの借り物が多く、なんでもありであいまいなところがあるという。ただし、それぞれの学問には固有の対象があるはずだ。教育学の固有の対象とはなんだろうか、という話になった。

彼の講義が面白いのは、それが魅力的な方法であるにもかかわらず、教育学以外の分野では、絶対に採用されることはないだろうと思えるところだ。ということは、それが教育学の固有の対象に触れている可能性が高いといえるだろう。

僕の独断では、それは一者(教師)対多数(子どもたち)という、特別なコミュニケーションのあり方だと思う。