大井川通信

大井川あたりの事ども

『世界史の実験』 柄谷行人 2019

柄谷行人の新著。こんどこそは、という思いで期待して読んだけれども、目覚ましい読後感はなかった。

柄谷の著作を熱心に読んで刺激を受けたのは、2000年頃、柄谷がNAMという社会運動を行っていた頃までだ。それ以降の多くの著作は積読状態で、何冊かの手軽な小著は読んできたが、あまり柄谷らしさを感じることはなかった。

先日、新聞の特集で平成の30冊という識者へのアンケート企画があって、柄谷の『トランスクリティーク』(2001)があげられていた。著作の魅力ということでは、僕の漠然とした印象も案外当たっているのかもしれない。

自分が年齢を重ねながら気づくのは、かつて一世を風靡した思想家たちの老いや衰えである。自分の考えを更新することは、まして時代の先端でヒリヒリした批評の言葉を紡ぐことは、とんでもなく労力のかかる作業だろう。柄谷も80歳近くなる。いくらひいきの気持ちがあっても、柄谷だけが衰えを免れるとは考えにくい。

ただし今度の本は、今までの柄谷自身の歩みを振り返って、新しい仕事を位置づけているので、理解が容易になったところもあった。

若い時から、マルクスとともに柳田国男を読んできたが、柳田についてはその思考の「内的な体系」をうまく取り出すまでにはいたらなかった。空間的な差異を観察することで、それを時間的な差異として理解する「実験の史学」というのが、それでないのか。柳田の山人研究は、世界史における遊動民(原遊動性)の役割を、日本を舞台に「実験の史学」によって明らかにしようとするものである。柳田による固有信仰の研究は、この山人の宗教を対象としているから、内向きなものではない。人類学者のいう互酬性(贈与)は、定住の結果であって、原遊動民はそれとは別の交換関係を生きていたはずだ。

こうしてポイントを要約してみると、柄谷の思考の輪郭が多少はっきりと見えてくる気がする。かつてのようにダイレクトに今この場所の自分に突き刺さることはなくても、大井川歩きを使命とする僕にとっては、旧村落と里山の時空間を理解するためには、重要な認識だという予感がする。

かつて経済学者の岩井克人は、「柄谷さんの言葉のなかに『真理』が宿っているという不思議な感覚」に襲われると語った。僕も、若いうちからこの「不思議な感覚」を共有した一人だ。僕にも、おそらくたいした時間は残されてはいないだろう。柄谷からのバトンを受け取らなければ、という思いをあらたにした。