大井川通信

大井川あたりの事ども

ケヤキの根を掘る

ケヤキは、子どもの頃からなじみ深い木だ。隣町の府中の街中にはケヤキ並木があったし、古い農家の屋敷森には、巨大なケヤキが目立っていた。僕にとって、武蔵野のイメージに欠かせない木なのだ。

その理由をあれこれ思いめぐらしていて、昔から好きだった詩を思い出した。保谷は、今は合併で無くなってしまった多摩地区の市名だ。

 

保谷はいま/秋のなかにある ぼくはいま/悲惨のなかにある/この心の悲惨にはふかいわけがある 根づよいいわれがある

灼熱の夏がやっとおわって/秋風が武蔵野の果てから果てへ吹き抜けてゆく/黒い武蔵野 沈黙の武蔵野の一点に/ぼくのちいさな家がある/そのちいさな家のなかに/ぼくのちいさな部屋がある/ちいさな部屋にちいさな灯をともして/ぼくは悲惨をめざして労働するのだ/根深い心の悲惨が大地に根をおろし/淋しい裏庭の/あのケヤキの巨木に育つまで  (田村隆一保谷」)

 

簡潔で力強い展開。ダイナミックな視点の飛躍。悲惨という抽象概念をモノのようにつかみだして、それをケヤキにつなげる比ゆの鮮やかさ。

だから、20数年前、今の住宅街に越してきたとき、この区画のシンボルツリーにケヤキを植える計画だったことにも特に依存は無かった。しかし、他の家はみんな成長の早いケヤキに手を焼いて切ってしまい、残っているのは我が家の玄関先だけになった。たまたま敷地が角地で公園に面していたため、ケヤキが多少大きくなっても支障がなかったのだ。

ところが、今回玄関先の敷石がいきなり不自然に持ち上がってしまい、掘り返してみると、太い根がタコの足のように長く伸びて、コンクリートを押し割っている。僕は、業者の人と一緒に、スコップで深い穴を掘って、地中深くでその根を切断した。空中を気ままに伸びる枝とは違い、固い地中を掘り進む根は目がつまって固く、切り口は驚くほど白い。

こんな小さな住宅街では、やはりケヤキの巨木も、精神の悲惨も育てることはできないのだろう。せめて頻繁に小さく刈り込みながら、しばらくケヤキとともにある暮らしを楽しもうと思った。