大井川通信

大井川あたりの事ども

『いつもそばには本があった。』 國分功一郎・互盛央 2019

僕より一回り若い論者による、本や研究をめぐる往復書簡。「一回り」とは古い言い方だが、なるほど世界が更新されるのに十分な期間なのかとあらためて思った。「十年一昔」という言葉もあったっけ。

いわゆる哲学・現代思想といわれる分野の専門家たちだから、懐かしい名前や本も話題になって、啓発されるところが多かった。僕自身はこの分野を遠巻きにながめながら暮らしてきたにすぎないが、國分は「一般読者」に届く作品を書くことを大切にしているという。だとしたら、彼ら専門家の繊細な議論へのおおざっぱな、しかし強い違和感をメモしておくのも意味があるかもしれない。

10年ズレている。それが端的な感想だ。体験のズレは仕方ないけれども、どうやらそれは時代認識のズレのようなのだ。

90年代半ばに思想書を読み始めた國分(この本では彼が議論をリードしている)は、周囲が「そんなものは幻想にすぎない」という議論に満足しているのを感じ、それが思想・哲学が大きな課題に直面しておらず、やることがなかったからだと考える。そして、こうした雰囲気を打ち破ったのは雑誌『現代思想』2002年の「税の思想」という特集号で、この特集がいかに驚きをもって迎えられたのかを記録するのが、この本の目的の一つだとまで言い切るのだ。思想が国家の政策を論じることの必要性や、「差異と交換だけで資本主義を論じる」ことの問題点が、この特集で明らかになったのだと。

正直、キツネにつままれたような気分になった。「そんなものは幻想にすぎない」という議論が本当に跋扈したのは、マルクス主義の退潮を受けての80年代の思想界だ。ポストモダンの思潮がながれこみ、消費に浮かれる80年代には、確かに哲学・思想にはまともな課題に直面していなかったかもしれない。

90年前後に、冷戦の崩壊とバブルの崩壊という、間延びした社会に衝撃を与える事態が発生する。この事態を前に説明も対応もできないことが明らかになり、「現代思想」は輝きを失っていく。その頃、社会学者の橋爪大三郎が『現代思想はいま何を考えればよいのか』という本を書いて、国家や具体的な政策を論ずることがなく、差異と交換の話ばかりしている現代思想の在り方を批判したのには、文字通り目からうろこが落ちる思いがした。

90年代には、それまでの戦後社会の安定や常識を覆すような出来事が頻発した。大企業の倒産や政権の交代もそうだし、95年にはオウム事件もあった。考えることの課題は山積していたのだ。ただそれを担ったのが、経済学であったり、社会学であったり、在野の思想家たち(僕に近いところでは竹田青嗣加藤典洋らが元気だった)であって、現代思想ではなかったということにすぎない。たしかに、ある現代思想論者が、自著の後書きで、90年代に入って現代思想がつまらなくなったと嘆いているのを読んだ記憶がある。

國分功一郎は、誠実でまじめな思索者であることはわかるが、その著作からは違和感がぬぐえなかった。今回の本で、その理由が少しわかった気がする。広い視野で発言や活動をしているかに見えて、その足場はかなり狭く、バランスを欠いているように思えるのだ。