大井川通信

大井川あたりの事ども

山猫と紳士とどちらが愚かか?

昔、小学校の授業の指導案で、宮沢賢治の童話『注文の多い料理店』を読ませるときに、「山猫と紳士とどちらが愚かか?」という問いをもとに議論させるというものを見て、びっくりしたことがある。山猫にだまされて裸になり食べられそうになる紳士たちは確かに「愚か」なのかもしれないが、そんなレッテルをはったらかえって作品の世界に入りにくくなるだろう。紳士を取り逃がした山猫が「愚か」というのも、無理やりすぎる。

学校の事情に詳しい友人に聞いたら、そんな風に登場人物の間に対抗関係を見出して、子どもたちに議論させるというのが、国語の授業の流行りであるそうだ。なるほど、子どもたちは、どっちがバカかという話題なら、わいわい話し合いやすいかもしれない。しかし、それでは、作品の世界からかぎりなく遠ざかってしまう。

小説は、そこにわかりやすい問いを見出して議論するために書かれているわけではない。とおりのよい解釈を与えるために描かれているわけでもない。

そんなことを思い出したのは、参加している読書会で、井伏鱒二の『山椒魚』を取り上げたときに、話し合いがどうしても、山椒魚と蛙とが、それぞれどんな気持ちを抱いていて、いったいどちらが悲惨なのかみたいな議論になりがちだったからだ。

そういう議論をはじめると、話し合いの形にはなるけれども、言葉が宙を舞って、小説の実際のてざわりからどんどん離れてしまうような感覚を味わった。しかしそのことに文句をいうのは筋違いだろう。

読書会や授業があるから、実際に希少な文学作品を手に取り、それを味わうことができるのだから。読書会や授業の最中の「饒舌」は必ずしも作品の世界を深くとらえることには貢献しないかもしれない。しかし、その「饒舌」の前後には、一人一人が作品と向き合う「沈黙」の時間が存在するのだ。その時間を信頼することが大切なのだろう。