大井川通信

大井川あたりの事ども

ハチのお通夜

昨年のクリスマスの前に、我が家に迷い込んできた子猫のハチが死んだ。てんかんの発作を持っていたけれども、月に一度、何分間かで収まる程度だったので、獣医と相談して、ゆっくり投薬治療をしていけばいいと思っていた。

今回の発作は、一度収まったあとに再度大きな発作が起き、その後も痙攣や震えがおさまらない。目はうつろで、毛を逆立てて、何かに立ち向かうような動作をくりかえす。あわてて獣医にかけこんだが、治療中、心臓と呼吸が止まってしまった。

拾ったときが生後二か月くらいというから、六カ月の命だった。素人目にも相当重いてんかんを患っていたようだから、寿命だったと考えるしかないような気がする。しかしあまりにも突然だった。今朝は元気で、裏口の網戸越しにスズメの声を熱心に聞いていたそうだ。

近くのペット葬祭場で火葬の予約を入れてから、家に帰る。やはり長く一緒の時間をすごしただけに、妻はハチを抱きかかえながら、しきりに話しかけている。「やっとハチのお母さんになれたとおもったのに」「たった四カ月だったけど、この子からたくさんのことを教わった」

僕も動物を飼うのはほとんど初めてだから、あらためて知ることが多かった。顔のつくりや手足の形が、よくよく見たり触ったりすると、人間とはずいぶん違う。言葉も使わないから、思考も感情も行動のルールもおそらくかなりちがう。それでもひとつ屋根の下で、いろいろもめごとをおこしながらも、おたがいに歩み寄って、一緒に暮らすことができる。大切な何かを共有し、お互いをかけがえのないものとすることができる。

ペットなどというから、まるで人間同志の関係が中心で、その関係を身近な動物に投影した疑似的な関係のように錯覚してしまう。むしろ自然をベースにした生き物同士の関係が基本にあって、その上に人間同志の人工的で脆い関係が載せられているのだ。

みじかい時間だったけれども、僕自身の喪失感や悲しみの深さが、ハチとの関係がまぎれもない家族だったことを教えてくれる。ハチが長生きをすれば、夫婦のどちらかは先に死んで、ハチに看取ってもらうことになるかもしれない。そんな冗談をいっていた。せめてもう少し長くいっしょにいたかった。

ハチから学んだことは、もう一つある。二時間近く、苦しみながら、何かに必死に立ち向かうように死んでいった姿だ。僕にはどうすることもできなかったけれども、僕に死の順番が回ってきたときには、ハチのようにひとりで勇敢に試練に向き合おうと思う。

闘いが終わって、すっかりやすらかな表情になったハチは、今階下の妻と次男の寝室のふたりの枕元で眠りについている。これがお通夜なのだと、あらためて気づかされる。