大井川通信

大井川あたりの事ども

昭和最後の日

1989年1月7日。当時、僕は東京八王子で塾講師をしていた。前年から昭和天皇の病状の報道が続いていたが、早朝に「天皇崩御」の報道があった。通勤の道を歩きながら、いつもは目をあわせることもない通行人たちの表情が気になり、その一人一人とほとんど目くばせを交わすような思いだったのを記憶している。そんなことは後にも先にもなかった。

生まれた時から続いており、終戦という日本社会の大変動の前後も貫いていた昭和という元号が終わる。それは政治的立場がどうであれ、やはり自明な世界が「崩壊」するような感覚を与えるものだったと思う。その点で、お祭りムードが先行する今回の改元とはまるで違った。

ちょうどその日に雑誌『文学界』の2月号を手に入れて、電車の中で目当ての柄谷行人浅田彰による「昭和の終焉に」という対談にあわただしく目を通した。改元を念頭においた二人の冷静で、むしろ冷酷な分析に救われた思いがしたためだろうか、はっきりと記憶している。

平成最後の日に、柄谷の対談集に収録されたその対談を30年ぶりに読み直してみた。大まかに言って、論点は二つある。一つは、70年代以降の安定期は、「構造の時代」であり、構造論やシステム論によって理解できてしまう退屈な時代であること。天皇論についても、その起源を問うという発想は、システムとして必要だという結論にしかならない。もう一つは、そういう日本的なシステムに対する同調として、知識人や文学者の仕事が内輪向けのお座敷芸と化していることの批判である。

構造の反復では説明できない歴史がやってくるという認識は、冷戦やバブル崩壊の前夜において、きわめて正確な予告だったと思う。また、知識人が影響力などない前提で原則的で明快な仕事をすべきだという指摘も、今でもいっそう有効なものである気がする。

天皇制は起源の意味を離れて、新しい意味付けを得て存続するという予想は、平成天皇への世間の評価を見ると、正しかったと言わざるをえない。今ではかつてのように天皇の起源論や一木一草に天皇制があるといったような文化論に興味が示されることはなくなった。

柄谷は「前の大戦の記憶がある以上は、まだ40年ぐらいは安定体制を目指そうとうする意識が働くんじゃないか」と語っている。それから30年。大きな破局の記憶は、確実に風化しつつある。