大井川通信

大井川あたりの事ども

村の賢者がインスタをはじめる

大井の古民家カフェに村の賢者原田さんを訪ねると、表情が明るい。話を聞くと、自分の作品をインスタに上げるようになって、見てくれる人の数が増えているのだという。僕が勉強部屋代わりに使っている近所のファミレスがあって、以前から食事をする原田さんと顔を合わせることがあったが、最近では僕に負けないくらい長時間居座っていることがある。スマホとにらめっこしていたから、インスタの作業をしていたのだろう。

原田さんは、詩や童話を書き、それを独特のタッチで書にする。言葉には、波乱万丈の生活体験や宗教体験からする深みがあるし、書は、自由奔放でユーモラスだ。思いがけない発想で言葉を組み合わせて、絵のように描いたりもする。なるほど、インスタ映えする作品だ。

僕は詩や思想を少しかじっているから、原田さんの書くものが、現代詩の文脈には収まらないけれど、優れたセンスを持っていることに気づいていた。若き日に高森草庵で押田成人と格闘したという宗教思想が本物であると感じることができた。大井の古民家をこつこつとほぼ独力で改修して、仲間たちとの場所づくりをするという10年にわたる実践を間近で見て、頭がさがる思いだ。資金不足を補うために、長く新聞配達の仕事を続けていたし、今は幼稚園の用務員をしている。

にもかかわらず、原田さんの真意が周囲に十分伝わっているようには思えなかった。僕より10歳先輩の原田さんのやり方は夢想的で、いかにも不器用で能率が悪い。若い人たちのスマートで実効性のある仲間づくりや街づくりを一方で見ているだけに、余計そう思えた。

原田さんは時宗の開祖一遍が好きだ。だから失礼な話だが、僕はこんなことを話していた。一遍のような人はおそらく歴史上たくさんいたのだろうけれど、たまたま運よく彼の名前が残ったのだろう。原田さんが一遍なみの人物であることはわかるが、それが世間に知られることはないのでしょうね、と。冗談めかしてはいたが、本音だった。

しかし、ここに来ての、思いもかけない逆転劇だ。原田さんの真価である書を、同好の士にダイレクトに届けるインスタという文明の利器に原田さんが気づいたのだ。すでにフォロワーが500人という話に僕が感心すると、店長の小川さんが、厨房からまぜっかえす。だって、その倍くらい自分からフォローしているのだもの。

なるほど。原田さんなりに地道に見てもらうための作業に励んでいるのだ。しかし、自分の作品を届けようという努力では、原田さんは一貫している。今までの牛小屋をギャラリーに改装するなどの粘り強い作業が、こんどはネットの世界に広がったのにすぎない。しかし、これは喜ぶべきことだろう。

ふと、自分のブログのことを思った。必要があって限られた知人に見てもらった以外は、読んでもらうための手続き上の努力をまったくしていないのだ。なけなしの力を振り絞って他者が読みうるものを書こうとは努力しているのだから、これは矛盾といえば矛盾なのかもしれない。