大井川通信

大井川あたりの事ども

ふるさとへ廻る六部は

伯父伯母の呼称というのは面白い。僕の両親とも戦前の人だったから、兄弟が多かった。年長の兄弟に対しては、赤坂のおばさん、誉田のおじさん、というように地名をつけて呼ぶ。年少の兄弟には、ふみ子おばさん、やすおおじさん、というように名前で呼んでいた。年長で、同じ町内ならどう呼ぶか。八須のおじさん、というように苗字をかぶせることになる。苗字より地名が優先するのが興味深い。

18年前の子どもの日に亡くなった伯父さんは、同じ敷地の隣の家に住んでいたし、名字も同じだった。それで、いとこの名前を使って、けんちゃんのおじさん、と呼んでいた。両親は単に隣家を、隣、と言うのが多かった気がするが、僕には、けんちゃんち(けんちゃんの家)という呼び方のほうに愛着がある。

おじさんは大正9年1920年)の生まれだったと記憶する。戦前の商大(一橋大学)の出身で、戦後は西日本新聞の記者をしていたが、結核を患い、地元の中学の社会科教師になった。戦争中は、海軍で飛行機に乗り、あと少し終戦が遅かったら、特攻隊として出撃していたそうだ。

特攻隊として戦死し、戦後20年経ってから遺稿集『わがいのち月明に燃ゆ』が出版された林尹夫(1922-1945)とは同じ航空隊にいて、戦後しばらく彼の荷物(行李)を預かっていたという話を聞いた。林の戦死は、終戦の19日前だったという。

父と伯父とは、長身で細面の外見はよく似ていた。僕は晩年の藤田まことを見ると、伯父を思い出すのだが、子どもたちは、むしろおじいちゃんにそっくりだという。ただ、性格や趣味嗜好はかなり違っていたのかもしれない。

江戸前の落語が好きで、名人文楽に入門を志願したこともある父親とは違い、伯父はむしろ上方のお笑いが好きで、父が嫌うテレビのバラエティなども喜んで見ていた。昔のことを事細かに思い出して語ることが好きだった父に対して、伯父からは昔の話を聞くことはなかった。漱石荷風が好きだった父に対して、伯父は鴎外や露伴が好きだった。

僕が大学に入学した時には、ドイツ語の学習書を一式渡してくれた。演劇一筋で苦労した従兄が後年その世界で評価を受け、大学で講師をするようになったときには、伯父さんを超えましたね、と声をかけるとうれしそうだった。

最後に会ったのは、だいぶ身体が弱っていた時だった。「ふるさとへ廻る六部は気の弱り」という古い川柳を教えてもらったのを覚えている。全国を歩く巡礼者も、年を取ると自分の故郷に足が向きがちになるという意味のようだ。すでに自分の運命を、伯父さんらしい諧謔心で受け止めていたのかもしれない。