大井川通信

大井川あたりの事ども

分類法について

フーコー(1926-1984)は、『言葉と物』(1966)の冒頭で、中国のある百科事典の奇天烈な動物の分類法を紹介している。その分類では、動物を14のカテゴリーに分けるが、それは、「皇帝に属するもの」「芳香を放つもの」から始まり、「今しがた壺をこわしたもの」「遠くから蝿のように見えるもの」で終わる。

フーコーの解説書を読むと、この分類法が奇妙に思えるは、各項目が並び合うべき「共通の場」がもはや崩壊しているからだという。そこからフーコーは、物に言葉を与え、言葉を用いて思考するために必要な、この根源的な場所をエピステーメと名づけ、それが抽象的な原理ではなく、歴史的な日付においても、地理的な広がりにおいても限定されたものであることを明らかにしていく。

そこまで大袈裟な話ではないのだが、ブログを書いていて、カテゴリ-という機能が、書かれた記事の整理ということをこえて、書いたり考えたりすることに無意識の力を及ぼすことに気づくようになった。

初めは記事を書きためながら、それに見合ったカテゴリーを追加していく。記事が増えてくると、一つのカテゴリーの中から、新しいカテゴリーを分家させたりもした。気づくと、カテゴリーがちょうど20になったので、そこで打ち止めとしている。それができたのは、「言葉ノート」と「モノの話」という、何でも入る大ぶろしきのカテゴリーを手に入れたためだろう。

こうしてそろった20のカテゴリーの取り合わせは、「中国の辞典」ほどではないけれども、他者からみれば奇妙なものに思えるかもしれない。カテゴリー同士が並び立つ共通の場所が見えにくいのは確かだろう。その共通の場所が、僕自身の生活や経験であり、比ゆ的には、僕自身の無意識のエピステーメであると言っていいかもしれない。意図的、計画的に作り出したものではなく、二年間にわたる思考の軌跡がおのずと生み出してきたものだからだ。

すると今度は、カテゴリーの方が、僕が考えるべきことや書くべきことへの示唆を与えてくれるようになった。カテゴリーが、僕の生活を耕し、そこから何ものかを収穫するための手助けをしてくれるようになっている。

ブログを書きはじめた頃は、たとえ未熟でも、できるだけ自分の思考や感覚を文章に刻みたいと考えていた。今でもそれは変わらないが、それだけでは少し息苦しい。しだいに他者の言葉、中でも死者の声に耳を傾けることが多くなった。だから、自分でも意外だったのだが、死者の過去帳という意味の「点鬼簿」というカテゴリーが、目下のお気に入りとなっている。