大井川通信

大井川あたりの事ども

『経済学のすすめ 私の体験的勉強法』 正村公宏 1979

自分自身の経済や経済学の勉強について、振り返ってみる。80年に大学に入学して、一年間マルクス経済学の原論の講義を、割と熱心に聞いた。永山武夫という労働経済が専門の先生で、素朴に製本した自分の講義ノートをテキストに使い、ひなびた感じの授業がよかった。

就職活動をして、実際に保険会社に勤務すると、経済の実際知識に触れることになる。「金融自由化」が取り沙汰されていた頃だった。

80年代の終わりに、自分なりに経済のことを勉強し直そうとしたときに、正村公宏(1931-)の本には助けられた。いわゆるマル経と近経との対立をこえて、わかりやすく道具としての経済理論を説明できる学者だったので。

当時は、佐和隆光(1942-)や飯田経夫(1932-2003)らの(近代)経済学の自己反省を含んだ本をよく読んでいたし、奥村宏(1930-2017)の法人資本主義論が面白かった。

冷戦の終焉やバブルの崩壊を受けて社会が動き出すと、経済の現場を自信ありげに語るエコノミストたちの本を手に取るようになる。「市場の声」なんてそれまで聞きなれない言葉が、マスコミを席巻していた。

その後も神野直彦(1946-)や小野善康(1951-)など、肌合いが合って理解できる学者の本に出会うと、その都度まとめて読んだりした。

このところ、自分史にからめて経済を語るというスタンスの本を二冊続けて面白く読めたので、思い出して段ボールの底からこの本を取り出してみた。30年前に書かれて、20年前に読んで印象の良かった本の再読だ。

残念ながら、前二著ほどの面白さはなかった。マルクス主義から出発して、近代経済学の立場に移行した歩みは興味深いが、旧世代の学者の節度からか岩井の本のような赤裸々さはないし、やはり著者の格闘した問題が過去のものになっているからだろう。

しかし、僕の親の世代にあたる著者の率直な言葉は、歴史の証言として重みがある。「大学へいく機会を与えられるという自分の特権は、それを与えられなかった人々の地位を改善するためにこそ使われるべきであるという責任の意識」というのは、後の世代からは感じられないものだ。

近代経済学は、いろいろ精密そうな道具をそろえてみせてくれますけれども、めったには独自の資本主義像を構築してみせてくれません・・・これに対し、マルクス経済学は、あまりにも素朴な道具しかもっていませんが、それでも、なかなか立派な丸太小屋を作ってみせてくれるのです・・・そのため、ある人々は、学生のころにその丸太小屋にはいり込んで以来、外に出てこなくなってしまい、外の世界を忘れてしまうことになります」

まじめ一方の著者の文章だが、この部分にはおそらく切実な経験に裏打ちされたイロニーが込められていて、笑ってしまった。