大井川通信

大井川あたりの事ども

コンビニの手塚治虫

大阪道頓堀近くのコンビニで手塚治虫ベストセレクションという短編集を500円で買った。どういう出版や流通の仕組かは知らないが、以前からコンビニの漫画コーナーには、かつての名作がペーパーバックになって安価で売られている。しかしとっくに漫画を読む習慣を失っているから、今まで買ったことはなかった。

ホテルでの時間つぶしに読むつもりだったのだが、面白かった。自分の少ない読書体験からも、楳図かずお(1936-)や永井豪(1945-)なら文句なく天才と呼べるだが、手塚治虫(1928-1989)の作品はそれほど熱心に読んではいなかったのだ。今回、いくつかの短編に触れただけでも、巨匠といわれるのがよくわかった。

何より驚くのは、奔放な想像力による「異類」の造型の巧みさだ。猫に似た知的宇宙生物の「シャミー1000」、純真無垢な妖怪の「雨ふり小僧」、ポスターの写真が人格がもった「るんは風の中」、愛するものを同化する少女を描く「グロテスクへの招待」等々。

ここには、自分が異なる存在であることの孤独や悲哀とともに、異なる存在に向き合う側の恐怖や憧れが、そして両者を否応なく結びつける特異な愛の様相が、くりかえし描かれている。

思い出してみると、僕が子ども時代に熱心に読んだ漫画家は、先にあげた楳図や永井も、何より石森章太郎(1938-1998)や、あるいは白土三平(1932-)ですら、このテーマを正面から扱っており、それに惹きつけられた記憶がある。

今回の旅行では、読書会の課題図書であるトーマス・マンの『トニオ・クレエゲル』の薄い文庫本を持っていった。この小説には、人間界の「異類」である芸術家の孤独と、健康な生活者に対するあこがれとその断念が、たんねんに描きこまれている。手塚治虫とまったく同じテーマなのだ。

この場合、言葉数の多さや表現の慎重さが、優れていることの証しとはならないだろう。手塚の突飛な造型の方が、物事の核心を端的にとらえているのかもしれないのだから。