読書会の課題で、トーマス・マン(1875-1955)の『トニオ・クレエゲル』(1903)と『ヴェニスに死す』(1913)とを読む。どちらも理屈っぽく、ぎくしゃくとした構成の小説だが、前者の方が面白かった。
トニオ・クレエゲルは、芸術と生活との間で、危うい綱渡りを強いられる。孤独な芸術の世界で骨身を削りながらも、自分がそこに居場所のない、健全で当たり前の生活への憧れや敬意を失っていない。
一方、『ヴェニスに死す』では、中年すぎた作家(アッシェンバッハ)が、突然、健全な生活の側の美(タッジオ少年)に、身もふたもなくのめり込み、陥落してしまったようにも読める。トニオ・クレエゲルなら、こんな甘い幻想に身をやつすことはないはずなのに。
ところで、この小説を現代の設定に置き換えてみる。軽い冗談で。
50代の実直な会社員である大井川氏が、たまたま出張中の息抜きで寄った秋葉原の地下劇場で、まだブレイク前の橋本環奈を見つけ、「千年に一人の美少女」と直感し、雷に打たれたような衝撃を受ける。
そのまま有給休暇を使い果たし、欠勤を重ねて、環奈の追っかけにうつつを抜かす。ライブ会場では、環奈に「レス」をもらったとか、環奈に「認知」されたとか、妄想をふくらませるが、握手会とかグッズのお渡し会とかには足がすくんで参加できない。そんな中、ライブ中に持病の心臓疾患で、座ったまま「地蔵」のように昇天。
この場合、大井川氏(アッシェンバッハ)の気持ちは、最初の瞬間の一方的な思い込みで確定しており、あとはひたすら高まるのみ。橋本環奈(タッジオ)にとって、大井川氏の存在は一貫して無でしかない。両者の間には、実際のところ、何の関係も成立していない。
大井川氏の人生は軽薄そのものだが、当人にとっては、アッシェンバッハと同じくらいに深刻だ。