大井川通信

大井川あたりの事ども

資源目録と経済倫理

およそ30年前の廣松渉の対談本を読み終わる。最後の章は、社会主義の行方という内容で、今読むと、とても古びた話題と理屈が語られている。冷戦崩壊直後の時代にはかろうじて認めることができた社会主義をめぐる希望や可能性が、その後完全に潰えてしまったからだ。この分野は、廣松さんの仕事の中でも、一番早くリアリティを失う部分なのはまちがいないだろう。

しかし、廣松さんが真正面から「計画経済」について論じているのを読むと、かえって新鮮で、すがすがしい感じさえする。要約すれば、こんな感じだ。

僕(廣松)は計画経済がどうやって可能なのか、という原理的な問題を考えていなかった。工業製品の種類がわずかな時は、規格品の大量生産でうまくいっていた。しかし消費財生産財の多様化が進み、欲望の多様化が生じると、使用価値レベルで計画的配分を行うことが困難になる。しかし、混合経済にして、市場原理を入れることは、「賃金奴隷制」を基本的視角とするマルクスの資本主義批判とは相いれない。欲望の水準を可能的な生産力の水準以下に抑制することで、使用価値レベルでの調整を図ることが課題となる。生産力が上昇すれば、法則科学としての経済学は不要となり、資源目録と経済倫理(欲望や労働や分配における規範)のみで何とかやっていけるはずだ。

こういう話がかつてリアルに語られていたとは信じられないくらいの絵空事だと思う。貨幣に追いまくられたり、貨幣によって巨万の富の格差が生み出されたりすることのない社会。そこそこ十分なモノとコトが生み出されるのなら、そのカタログと、それを生産・分配・欲望するための最低限のモラルが各人にあれば、貨幣や市場抜きにうまくまわっていくという世界。

しかし、こんなユートピアのイメージは、かつてのようなイデオロギー対立の現場ではなく、個人の生き方において今こそ大切である気がする。

近頃知り合いになった店のマスターがいるのだが、ふと彼のことを思い出す。就職氷河期の時代に社会に出たいわゆるロスジェネ世代の彼は、今は自分の革製品を置くバーにお客さんを迎えるのが何より楽しいという。それで開店以来360日連続勤務で、お客をもてなしている。彼に夢を尋ねると、途上国に学校を建てたいとさらっと答える。僕などからは、ぜったいに出てこない言葉だ。

なぜそんな風に考えられるかと、さらに聞くと、自分が十分満ち足りているからだろう、とこれもあっさり教えてくれた。なるほど、そういうことなのだ。