大井川通信

大井川あたりの事ども

あちこちの南無阿弥陀仏

仕事関連で、一日に二カ所、葬儀に参列した。二カ所とも県内で遠方だったため、文字通り東奔西走した感じで、車の走行距離は250キロメートル以上になった。二カ所とも高齢の実母を亡くされている葬儀で、昨年の僕もそうだったが、同世代は中年を過ぎて親世代を看取る時期に入っているのだろう。

若いころは、見ず知らずの他者の葬儀に義理で参加することには、あまり意義を見出せなかった。今は、自然と参列に向かえるようになった気がする。葬儀には、生者を励ます、という意味もあることに気づいたからだ。それともう一つ。生者が死者ためにできることは、たとえ家族や親族であっても限られている。何かの縁で、その場に参加して、共に祈りを捧げることは、意味のないことではない。

一つは、浄土宗の葬儀で、密教ほどではないが、僧侶の装束も立ち居振る舞いも派手で、儀礼的だ。立ち上がってお経を唱えるときを、手に持った道具を不意に投げ捨てたりもする。お焼香のときに、参列者の全員が、遺族への黙礼もそこそこに僧侶に手をあわせていたのには驚いた。田舎で、高齢者中心の葬儀だったせいかもしれない。

もう一つは、浄土真宗で、ずっと簡素だが、お通夜なので法話があった。故人とのかかわりの話とともに、阿弥陀仏の本願の話もある。それを聞きながら、考えるところがあった。

日本人の葬儀は仏式がほとんどで、中でも浄土真宗による葬儀が一番多いだろう。真宗の死者に対する理屈はきわめてシンプルで、阿弥陀仏の立てた誓いによってすべての人が浄土に往生する、というものだ。しかし、このストーリーは、現代人の多くにとっては、そもそも聞いたこともないか、聞いたことがあっても理解できないか、あるいは理解できたとしても信じることができない内容であるはずだ。

にもかかわらず、今でも、その理屈が大手をふるって葬儀が営まれて、日々、多くの人が首を垂れて参列しているのだ。言葉と振る舞いとの乖離。あるいは、鶴見俊輔のいう「言葉のお守り的使用法」。日本人は、今までずっとそれでやったきたのだし、現実問題として、死という不条理を埋める新たな理屈を作り出すことなどできないだろう。

とはいえ、この乖離はやはり奇妙で、寒々しい。