大井川通信

大井川あたりの事ども

『ノンちゃん 雲に乗る』 石井桃子 1967

子どもの頃と同じ装丁で、今でも書店に並んでいる懐かしい本。これは姉の本だったから、当時僕は読んではいない。聞けば、良い本だから、と父が姉にプレゼントしたらしい。そんな父の想いを想像しながら、読んでみた。

戦前(昭和10年前後か)の東京郊外に住む家族の日常が、物語の舞台だ。それを後から振り返るという、ややとってつけたような形式で書かれているのは、執筆と発表とにタイムラグがある事情を反映しているのだろう。戦時中に執筆されたものが、敗戦後の1947年に出版され、それが1951年に再刊されたのちに、1955年に映画化されている。

このため、現在手に入る1967年の福音館書店版では、後日談の中の時間の経過の記述に、ややつじつまの合わないところがある。また、戦争や敗戦の混乱、戦後復興や高度成長等の社会の激震が、あっさり触れられるだけなのも、物語の主眼がそこにはないためだろう。

しかし、それにしても不思議な構成の物語だ。

ノンちゃんは、家の近くの神社の大木の枝から、池の中に落ちて気を失う。その間、池に映る空の底で雲をあやつる老人に助けられて、雲の上に乗るのだが、そこは白一色の世界で、冒険らしいことは一切おこらない。ただ、ノンちゃんが老人に求められるままに、自分の家族の日常の出来事を話してきかせるだけなのだ。

老人も、楽しそうに話を聞くだけで、ノンちゃんの考えを否定したり、新しい考えを植え付けようとしたりはしない。ただ、この老人は、元気でわんぱくで、外遊びが大好きで、思わずウソをついてしまったり、遊びに夢中で宿題を忘れてしまったりするような子どもが大好きらしい。正直者で優等生のノンちゃんは、そんな老人に反発を感じながらも、少しだけその考えに感化されていく。

こんなわけだから、ノンちゃんが意識を取り戻して、雲の上から戻ってきても、ノンちゃんの世界に新しい何かが付け加わるわけではない。わんぱくな兄ちゃんやガキ大将にもそれぞれの事情と良さがあることに気づいて、ちょっとだけ気持ちが楽になっただけだ。

だから雲の上のことなど、ノンちゃんはやがて忘れてしまう。そうして、激動の時代を経験して大人になったノンちゃんは、雲の上のことを、いつか自分の子どもに話してみたいと思うようになる。作者自身も、戦後復興と高度成長のただなかの社会に向けて、この本を送り届けようと試みる。

伝えたいのは、氷川様と呼ばれる鎮守の森の脇で営まれる、ノンちゃんたち家族の、子どもを大切にし、時に甘やかしていると思われるくらいていねいにかかわる暮らしぶりだろう。日本の神様には堅苦しい教義などはない。村のお地蔵様は子どもと遊ぶのが大好きだという伝承をよく聞くが、雲の上の老人は、そんなおおらかな神様のイメージに通じている。

神様たちは、子どもたちに成長を促したり、未来に顔を向けさせたりはしない。ただ現在を大いに遊べという。近代化と経済成長によって失われたのは、自然環境ばかりではなく、こうした精神的環境なのだ。

もう一つ。僕は大井川歩きを続けるなかで、村のあちこちにある神社やホコラ、石塔は、村人が外部にアクセスするための情報端末であるという仮説をもつようになった。小さな神々は、一人一人の悩みや愚痴の聞き役に徹することで、わずかでも彼らの救いとなっていたのだと思う。ノンちゃんの話を喜んで聞き出し、ノンちゃんに気づきを与えてくれる雲の上の老人は、そんな路傍の神々の姿そのままだ。