大井川通信

大井川あたりの事ども

ある文芸評論家の死

加藤典洋さん(1948-2019)が亡くなった。冥福をお祈りしたい。

90年代に、加藤さんを囲む会みたいな場所で、何度か話を聞いた。その風貌と話しぶりは、いかにも「文芸評論家」という感じで好感をもった。けれど、作品に関しては、当時から僕にはピタッとくるものではなかった。

僕が今でも参加を続けている読書会は、もともと評論家の竹田青嗣さんや加藤さんのファンが始めた集まりが母胎だったから、メンバーには加藤さんの本の編集者もいてファンが多い。それで、課題図書で読む機会があるのだが、ある時期、ゴジラ論を読んで、この先加藤さんの本を読むのはよそう、と決めたことがあった。それほど僕には肌の合わない本だった。だから、翌年また彼の新著が取り上げられたときには、僕は会を欠席するしかなかった。

その後、事情があって読書会を数年間休んだ後、覚悟を決めて参加を再開したばかりの会で、また加藤さんの本にぶつかった。このブログにも感想を書いたが、その時の『敗者の想像力』は、やはり良くなかった。ちょうど、加藤さんの旅行に同行したばかりというファンのメンバーがレポーターだったのに、辛辣な発言を繰り返してしまった記憶がある。

そんな後ろ向きの思い出しかないが、それでも今回、僕なりに加藤さんを振り返りたいという気持ちがあって、書棚から未読のエッセイ集を手に取ってみた。1995年の『この時代の生き方』。幸い、新聞や雑誌に掲載された短めのエッセイがならんでいて、読みやすそうだ。加藤さんの意外な魅力に気づくことになるかもしれない。

しかし。たまたま開いた、わずか4ページのエッセイに、僕はつまずいてしまった。

その「大震災と軽薄短小」という短文で、加藤さんはこんな風に話をすすめる。今回の大震災(阪神淡路大震災のこと)で、マスコミや論壇は、事態の重大さに直面して、それまでのバブルや軽薄短小の時代が終わったかのように論じている。しかし、こうした論調こそ、自分の「思想的敵手」だ。私たちは、バブルを批判すべきなのではなく、今回の事態を受けて、バブルや軽薄短小や平和ボケを引き受けて、それを鍛え直すべきではないか、と。

この文章が書かれてから、四半世紀が過ぎている。加藤さんと、世の論調とのどちらが正しかったのか、勝負は明らかだ。今では、震災を機にバブルと軽薄短小を鍛え直すという奇矯な主張が何を意味するか、想像することすらできない。

多くの論者たちが直観したように、あの震災が一つのメルクマールとなって、その後社会は大きく変質していった。彼らの多くは、震災の現実に向き合い、驚き、呆然とする場所から言葉を発していたのだ。別にバブルや軽薄短小を批判したかったのではなく、それが色あせて見えるしかない場所に立たされていたのだと思う。

一方、加藤さんの立ち位置はどうか。彼は震災の現実に目をやろうとはしない。ただ、右往左往する報道や論題の言葉の行方に目をこらしている。その中で、「思想的敵手」をこしらえ、身をよじるようにして、自分オリジナルの言葉や比喩をつくりだし、それをどうだとばかりに提示しているだけだ。すべて言葉内部の出来事であり、言葉をめぐっての自作自演の身もだえなのだ。

この短いエッセイが、加藤さんを読む本当の最後になるかもしれないと思う。