今日は太宰治(1909-1948)の忌日の桜桃忌だそうだ。実家の比較的近くには太宰が入水したという玉川上水が流れているし、太宰の墓がある三鷹の禅林寺にも行ったことがある。
しかし桜桃忌を当日に意識したのは初めてのような気がする。ただ、意味記憶とエピソード記憶との特性の違いを考えると、それも怪しい。後者は加齢で容易に失われるそうだから。とはいえ、桜桃忌に太宰の作品を読むというのは、さすがに初めてのことだと思う。太宰は好きな作家ではなかったからだ。熱狂的なファンが多いということも、かえって敬遠する原因となっていたのかもしれない。
とびきり薄い文庫本を買ってきて、とりあえず最晩年の『桜桃』を読んでみた。
成熟なのか衰弱なのかはわからないが、ストレートに吐き捨てるように書いている。だから、こちらもぶっきっらぼうに対話するように読むことができた。
「私は家庭にあっては、いつも冗談を言っている」
僕もいつも冗談を言っているが、それは職場や外向けだ。家庭では、ときどきしか冗談を言わないから、あなたの方が、ずっと徹底している。立派だ。
「ああ、ただ単に、発育がおくれているというだけのことであってくれたら!」
僕も、自分の子どもに対して、そんな風に思っていた。思っていても現実は否応なしにやってくる。現実を受け入れて、前にすすんでいくしかなかった気がする。
「私は議論をして、勝ったためしがない。必ず負けるのである」
僕は議論はあまりしない。ただ、人と向き合ったとき、必ず負けていると感じるのは、いっしょだ。謙虚でも気のせいでもない。実際に負けているのだ。なぜだろう。
「生きるということは、たいへんなことだ。あちこちから鎖がからまっていて、少しでも動くと、血が噴き出す」
あなたのように自殺を振り回したりしない分、僕は鈍感なのだろう。ただ近頃しみじみ思うのは、人生はこの一回で十分だということだ。若い時からもう一度始めるなんてことは想像もできない。今が終わりがけなのは、ちょうどいい。