大井川通信

大井川あたりの事ども

自国の政治家/隣国の政治家

ネットを見ていると、自国の政治家(指導者、権力者、トップ)をあがめて、隣国の政治家をおとしめるコメントがあふれている。彼らはマスコミの報道などうそばかりだという。ほとほとうんざりする。

一方、そうした風潮を批判する側の発信もあって、それによると自国の政治家は極悪非道であるのがまるで共通了解事項で、隣国の政治家が聖人君子扱いになる。彼らもまた自国の報道は信用できないという。両者は、それぞれ正しいことを言っているつもりなのだろうが、ちょうど合わせ鏡のようによく似ている。

後者の心情は、実は僕はよくわかる。親が左翼政党支持者だったから、保守政治家は腹黒い悪者で、革新政治家は清廉潔白の正義の味方と信じていた。ソ連や中国に親近感をもっていて、オリンピックでも他国の選手の応援をしていた。今だったら、「自虐」とか「反日」とかおおざっぱな一括りで攻撃されてしまうような、極端で屈折した心情をいだいていた。当時のこの心情には歴史的な経緯と必然性はあったと思うが、今でもそれが生き延びているのを見ると、なんともいえない気持ちになる。

自国の政治家は愚かかもしれないが、この日本の戦後社会がともに生み出した存在として、あなたと同じくらいには、良いものも、良いものを目指そうと思う気持ちも持っているだろうといいたくなる。同じ程度の社会制度から生み出された存在として、自国の政治家も隣国の政治家も、同じくらいに愚かで、同じくらいには良い所があって、まあ、どっこいどっこいというところだろう。

平凡な言い方だが、僕も大人になる過程で、政治的な思想の正邪は簡単には決められないこと、なによりどのような政治思想をもっているかということと、その人の人間性とはまるで関係のないことが身に染みてわかってきた。何より、自分(たち)だけが正しく、自分が気に入らない陣営や体制は悪者であると思いたいという心情こそ、人間が抜け出すことの困難な「愚かさ」の典型だと知るようになった。

僕にできるのは、こうして自分自身の「愚かさ」と夜ごと向き合うことだけだ。その時、自分以外は、自分の愚かさにも気づかない本当に愚かの連中だとは、僕はきめつけない。僕が、自分の愚かさに気づいている程度には、誰もが自分の愚かさに気づいていて、僕と同じ程度には、そのなかから良いものを取り出そうとしているはずだろう。たとえどのような立場や職業の人間であっても。

僕がこの世界に存在できるのは、せいぜいこの先数年から数十年程度だと思う。その程度には、この世界を信じていたい。