大井川通信

大井川あたりの事ども

僕は自分の方法をもっと信じなければいけない

妻が20年ばかり通っている彫金教室を、猫を連れて訪ねる。マンションの一室の工房を先生が改装したので、そのお披露目の会があるのだ。猫との外出は初めてなので、エサやらトイレの砂やらを車に持ち込む。こんなふうにあれこれ気を使うのは、子どもが赤ちゃんの時以来だねと、夫婦で笑う。実際、育てている感覚は、子どもとまったく同じなのだ。

会は、お金持ちのご婦人方の集まりという雰囲気で、僕たち夫婦は少し浮いていたような気もするのだが、まあよしとしよう。途中で夕食を食べて戻るが、まだ明るい。背伸びして気をはったせいか元気がある。一人で家を出て、大井川歩きをすることにする。

まずは、住宅街から。今は、同じく新しい地名になっているけれども、もとの里山は南向きの斜面と北向きの斜面とでは、持ち主の村が違うから地名が違っている。その古い地名を意識して土地を踏みしめる。空き地だった区画にも、いつのまにか新しい家が建っている。駐車スペースには、外車を含む複数の車が並ぶ。やっかみではなく、何でそんな余裕があるのだろうと不思議になる。こんな田舎の郊外にも、経済の恩恵は毛細血管みたいなものを通じて浸透している。それが不思議だ。

神社の裏山を抜けて、旧村の集落に降りるコースを選ぶ。この斜面の薄暗い林には、以前ヒメボタルが生息しているのを見つけたが、今年は確認せずにシーズンが過ぎてしまった。大井川歩きをだいぶさぼっていたのだ。和歌神社の神様にご無沙汰を詫びていると、裏の森から、ジイジイと大きなセミの声が聞こえてくる。クマゼミアブラゼミなのだろうが、時期が早いし、時刻も遅すぎる。何より節まわしに違和感がある。念のため録音をする。合間に交じるヒグラシの良くとおる声が、情感たっぷりで美しい。真上のまだ青が残った空に、銀色の旅客機の小さな針のような影が動いている。

大井川にかかる小さな本村橋を渡り、旧安部重郎邸の原田さんのお店へ。不在。ニワトリ小屋をのぞくと、汚れた毛布みたいな大きなニワトリが二羽、片隅で動かない。空腹なのだろうか。

薄暗くなりかけた道を歩いていると、遠くから、選挙宣伝車からの放送が流れてくる。近所のコミュニティセンターで候補者の演説会があるので、その呼びかけだ。少し考えて、立ち寄ってみることにする。選挙にも政治にも関心は薄いが、「自分が歩き回ることのできる範囲の土地に生起する事物に(だけ)責任をもってフィールドワークする」という、大井川歩きの精神には、それがかなっていると思えたから。

小さな政党の候補のためか、会議室に二十名ばかり。意外と若い参加者もいて、熱気も押し付けがましさもなく、拍子抜けする。出口で、地元の有名アナウンサーだった国会議員と握手だけして帰る。

そうして今、夜中の自室で、昆虫図鑑を開きながら、ネットであれこれと調べものをしている。大井川歩きは散歩ではない。見聞きしたことを、調べ、考え、つなげるプロセスがなければ、小さな身近なフィールドを味わい尽くすことなどできない。今回は、久しぶりの予想外の発見で、全身がぞくぞくするような喜びに浸っている。僕は自分の方法をもっと信じなければいけないのだ。

 (翌日に続く)