大井川通信

大井川あたりの事ども

安吾の推理短編を読む

図書館の大活字本のミステリーシリーズで、坂口安吾を借りてきて読む。いつのまにかそういう年齢になってしまったが、目に優しい本はありがたい。この短編集には、昭和20年代の戦後初期の世相が表れていて、興味深い。

ただ昨年、安吾の代表作といわれる短編を読んでみて、がっかりした記憶があった。安吾の評論の面白さは、建前や観念抜きに、愚直に人間や生活を肯定するところにあるだろう。小林秀雄相手ならばそれでいい。それが小説になると、当時の世相や生活感情、価値観にまるごとのっかる、という風になってしまって、微妙な陰影をもたないぶっきらぼうな記述は、今ではちょっと読むにたえない感じになる。

「パンパン相手に演説をぶつとはおよそ無駄骨じゃないか。だいたいパンパンというものは移動がはげしいし、転出証明もない者が多く、たいがい選挙権をもたない連中だ」(『選挙殺人事件』1953)

パンパンとは、占領軍の米兵相手の街頭の私娼のこと。戦中派の両親を持った僕には、かろうじてわかる語彙だ。ここでも安吾の視線は、彼女らに対する当時の偏見そのままのものだ。

「やがて九太夫はアリアリ思い出した。支那で見た少尉だ。大学をでたばかりの鬼少尉だ。人斬少尉だ。便衣隊の容疑者とみると有無を云わさず民家の住人をひったてて得意の腰の物で首をはねていたという鬼少尉。強盗強姦にかけてはツワモノで、彼は部下に大モテだった。部下は余徳にありつけるからだ」(『心霊殺人事件』1954)

探偵役の奇術師九太夫は、一人の関係者の男をみて、戦争中慰問先の中国の部隊で、彼に会っていたことを思い出す。便衣隊とは、平服の特殊部隊。この摘発の名目で、民間人の殺人や強盗強姦が行われたことは、当時の日本人にとっては暗黙の了解事項だったのだろう。「人斬り」を楽しんだ者もいれば、その余徳にあずかった者もいる。彼らもまた、敗戦後日本に帰ってきて、戦後の復興に力を尽くしたのだ。

安吾が、ここでも特に批判的な意識なしに、娯楽小説の一エピソードとして使っていることで、かえってこれが当時当たり前によく聞く話だったことがわかる。

戦後の日本人が、戦争を忌避し、戦前の軍国主義につながる自国の体制に批判的であって、中国らアジアの諸国に対して後ろめたさを感じてきたのは、今の若い人たちが考えるようなイデオロギー上の問題だけではなく、こうした民族としての共同の経験による「体感」が根底にあったのだろうと思う。この体感は、継承されることなく、急速に失われつつある。