大井川通信

大井川あたりの事ども

『測量船』 三好達治 1930

詩歌を読む読書会での今月の課題詩集。

三好達治(1900-1964)は、昔から「石のうへ」がとにかく好きで、このブログでも分析を書いたことがある。今回も、博多の大寺にお参りした際に、境内の風景を眺めながら、何度も暗唱して楽しんだ。

経済学に限界効用逓減という考え方があって、同じ商品を購入し続けていく場合、追加される一単位ごとの満足度(限界効用)が徐々に減っていく、というものだったと思う。好きな現代詩も、あまり読みすぎると、はじめに感じた良さが宙に浮いてしまうような感覚になるときがある。しかし、暗唱できるほど短い「石のうへ」は何度読んでもあきずに、限界効用が減ることはない。ふと、優れた俳句や短歌にも、同じような性格があることに気づく。このことの意味を、いつか考えよう。

三好達治の詩では、教科書で「石のうへ」や「乳母車」に出会い心を奪われたが、実際に詩集をめくってみると、この二編に似ている作品がない。作品間のギャップがあまりに大きいのが不思議だった。今回の期待は、かつて見過ごしていた「石のうへ」に匹敵する詩を見つけることだ。

全38篇中、〇が3篇、△が7篇で、打率は2割6分ほど。結論からいうと、若い時読んだ印象とさほど変わらない。様々な詩形や方法を試そうとしていたのはわかる。しかし、時代の制約を超えて踊り出てくるような詩魂には出会えなかった。

自分が詩に求めているものはなんだろう。輪郭、展開、イメージという三要素がとりあえずの判断基準である。全体として自立した、動かしようのない、きっぱりとした輪郭をもっていること。リズムにしろ、イメージにしろ、何か魅力的な展開をもっていること。忘れがたい、突き刺さる独自のイメージを各部分が提示していること。

こうした観点から見ると、ややぼやけた弱い印象(それが狙いなのかもしれないが)の作品が多いことは否めない。ただ、今回、「街」という散文詩に出会えたのは良かった。どこか異国の山あいにある「夜ごとに音もなく崩れてゆく胸壁によって」正方形に区切られた架空の街の様子が、厳格な文体で描かれている。長いので、三連中の第二連を引用。

「昔、この街を営むために、彼等の祖先は山脈のどちらの方角を分けてやつて来たのであらうか。この街の出来上がつた日、彼等の敵は再び山脈のどちらの方角を分けてやつてきたのであらうか。そして、この胸壁が如何に激しい戦を隔てて二分したのであらうか。それら総ての歴史は気にもとめずに忘れられ、人人はひたすら変わりない習慣に従つて、彼等の祖先と同じ形の食器から同じ黄色い食物を摂り、野に同じ種を播き、身に同じ衣をまとひ、頭に同じ髷同じ冠を伝へてゐる。それが彼等の掟でもあるかの如く、彼等は常に懶惰であり、時を定めず睡眠を貪り、夢の断えまに立ち上がつては、厚い胸を張り、ごろごろ喉を鳴らして多量の水を飲みほすのである。気流がはげしく乾燥してゐるために。」