大井川通信

大井川あたりの事ども

『ある小さなスズメの記録』 クレア・キップス 1953

この世界のあらゆる生き物は、種類として、グループの一員として存在していて、その種の名前において認識される。スズメとか、タヌキとか、キリンというように。

僕が、今日生まれて初めてトラツグミを見た、と言って喜んでいるときも、たまたまその林の木の根元にいた彼に出会えたことを喜んでいたのではなくて、彼を代表者に見立てたトラツグミという種類に遭遇したことに感激していたのだ。だから、彼がどこかで死んでしまった後、また別の場所で別のトラツグミに会ったときには、僕はなんのためらいもなく、はれやかに「トラツグミ」との「再会」を喜ぶことだろう。

しかし、どんなに「トラツグミ」とひとくくりにされようと、実際に生きているのは、一羽一羽の鳥である。始まりがあり、終わりがある命を持った一羽によってしか、種は担われることはない。

この事情は人間もかわらない。僕は、人間として、日本人として、男性として、あるいは職業人として認識されるけれども、そんな様々なグループを担うところの個人として存在している。本当は、そんなグループと無関係なところからやってきて、やがてグループから追い出されてしまう存在なのに。

そんなグループやら団体やらその他大勢やらからはみ出してしまう、過剰なもの、余分なものを持っているのが、人間の特徴だ、人間のすぐれている点だ、と習ってきたけれども、今では、そんな風には考えられなくなった。

どんな生き物でも、個を生きること自体で、それぞれに過剰や余分を目いっぱいその身に浴びることになるのだ。それは、人間たちが「自己意識」や「主観性」として奉るものに、けっして引けを取らないだろう。

この本は、音楽家であるクレア・キップス(1890-1976)が、12年間飼ったスズメの記録である。生後すぐに、羽と足に障害があるヒナを拾った彼女は、そのスズメが特別な才能を持っていることに気づく。戦争に苦しむ人々を、様々な芸で楽しませたり、曲を歌って著者を驚かせたりしたのが、彼の青春の絶頂期だったのだろう。

しかしこの本の白眉は、やや落ち着いた壮年期を経て、老いや病気に苦しむ老年期の記述にある。彼は衰えた自分の能力に見合った形に、(もちろん著者の親身の協力によってだが)そのつど生活を見直したり、その中で新しいことを試みたりする。青春期の芸を思い出したり、幼い時代の感情を取り戻したりしながら、最後にはゆっくりと衰えて死んでいく。

まるで第二次大戦の戦中、戦後を生きた人間の伝記を読んでいるような気分になった。そう彼には、クラレンス(1940-1952)という名前がある。