大井川通信

大井川あたりの事ども

『アジャストメント(調整班)』 フィリップ・K・ディック 1954

フィリップ・K・ディック(1928-1982)のSF短編。

ある平凡な会社員の男が、ある朝、自分の会社に出勤すると、高僧ビルは灰色に変色し、粒子や塵の堆積のようにもろくなっている。なんとか自分のオフィスにたどりつくが、同僚たちも皆、灰色の粒子化しており、触ると崩れてしまう。必死でその場を逃げ出して、あとからこわごわビルを訪れると、何事もなかったかのようだが、上司も同僚も姿形が微妙に変わっている。

混乱した彼は、「調整班」という組織に連行されて、説明を受ける。彼らは、歴史の進行をよりよくするために現実の「調整」作業を密かに行っているのだ。彼が目撃したのは、「脱力化」という段階であり、そこに「改変」を加え、「賦活」することで、現実は再び動き出す。

今回の調整の目的は、彼の会社に森林開発の大きな仕事を請け負わせ、ある重要な遺跡を発見させるためだ。そのことで、世界中の科学者たちが集まり、国際的な組織が生まれ、戦争の危機がいくらか遠のく。しかしそのためには、会社のスタッフがより若く、情熱的でなければならず、そのために改変したのだという。主人公は、この説明に納得し、「調整班」の仕事を口外しないことを誓う。

「調整班」は、人智を超えた仕事をしているものの、今回も手違いから主人公にその現場を目撃されてしまったように失敗しがちで、メンバーもずいぶん疲弊しているようだ。彼らの「風が吹けば桶屋がもうかる」式の歴史への迂遠な介入も、おそらく簡単には成功していないのだろう。ヘーゲルの「理性の狡知」みたいに、歴史の外側から悠然とコマを動かして、思い通りの結果を得るという余裕は、「調整班」にはないのだ。

しかし、そのことがかえって彼らへの共感を呼ぶし、「調整」という離れ技はなくとも、我々がふだんやっていることが彼らとあまり変わらないことにも気づける。様々に入り組んだ因果の連鎖に対して、良かれと思いつつ飛び込み、ささやかな改変を試みること。

2011年に映画化された作品を、偶然テレビ放送でみた。まったく似て非なる作品であることに驚いた。主人公は、将来の大統領候補である英雄であり、調整班の仕事も、彼に理想の恋人を近づけないという陳腐なものになっている。理想の恋人を得たら政治の仕事の情熱を失うから、というわけで、一人の英雄頼みで歴史を良くしようという安易な発想だ。結局は、個人の意志や愛情が運命を書き換え、自分の将来も恋人もともに手にするというハッピーエンドで終わる。

映画作品には、「運命」も「意志」もそこから生み出されるような、因果のネットワークとしての現実のリアリティは、全く失われていた。