大井川通信

大井川あたりの事ども

諸星大二郎の通勤電車

通勤電車に乗る人間は、電車内の人間たちだけでなく、沿線の風景にも無関心になる。これは僕にも経験があるが、たとえば沿線の途中の駅について、何年も同じ路線を通っていて、定期券でいくらでも途中下車が可能であるにもかかわらず、特別な用でもなければ、いちいち降りてみたりすることはまれだろう。

僕が東京にいたころ、通学の路線が途中から地下に潜って3駅目が、大学の最寄り駅だった。2駅目は大きなターミナルだったからよく利用したが、1つめの下落合という駅は、結局四年間で一度も地上の様子をたしかめることはなかった。そんなものだ。

ある統合失調症の患者の記録を読んでいたら、まわりの風景は厚みをなくし、人間は人形(ヒトカタ)へ、家並みは家形(イエカタ)へと変貌をとげる。消されてしまった本物の世界(オトチ)への強烈な欲望のみが空転する、とある。

通勤者たちが、ヒトカタやイエカタの囲まれながら、平常心を保てるのは、通勤の前後に家庭や職場といった本物の世界があることを確信しているからだろう。今では、スマホをにぎりしめ、自分のオトチと直接つながっている人がほとんどになった。

では、通勤時間のヒトカタやイエカタ自体に関心をもってしまったら、人間はいったいどうなるのか。諸星大二郎の初期の短編「不安の立像」は、この一点をえぐるように描いている。

主人公は、夕刻の通勤電車の窓から、いつも同じ線路わきに黒い布ですっぽり全身を隠して、じっとたたずむ姿があることに気づき、気になりだす。通勤客や駅員に尋ねても、誰もがまったく無関心であるという事実に、妙なリアリティがある。

彼は執拗にその「立像」が何者なのかを突き止めようとして、その恐るべき正体の一端に触れてしまう。それは、この日常の世界では触れてはならない禁忌(タブー)だったのだ。以後、彼は共同の黙契に従い、車窓には無関心な通勤者を演じるようになる。

諸星さんの若いころの公務員時代の経験が下敷きになっているのだろうか。鋭い洞察力と日常にまぎれる異類を描く力には敬服するしかない。