大井川通信

大井川あたりの事ども

吃驚する啄木

何すれば/此処(ここ)に我ありや/時にかく打驚きて室(へや)を眺むる

 

石川啄木の『一握の砂』の中で、この歌は、有名な「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ/花を買ひ来て/妻としたしむ」の次に置かれている。

すると、先の歌が、不本意で不甲斐ない自分を半ば受けとめ、暮らしの中でささやかな慰めを得るのにたいし、後につづく歌では、そんな境遇に甘んじている自分をするどく拒絶しているようにも読めるだろう。

本来あるべき自分と、現在の自分。本来いるべき場所と、実際のみじめな場所。その比較の意識は、たえず啄木を苦しめていたはずだ。しかし、だとしたら、あらためて「どうしたらいったい、ここに自分がいるのか?」という力強い、真正面からの問いが生まれてくるものだろうか。

この問いは、二つの場所を比較したうえで、なぜ自分が一方の場所にいるのか、と問うものではない。端的に「此処」を問題にしていると考えるべきなのだ。

僕たちは時々、物思いや読書をしている時、時間の意識や方向感覚を見失って、ふと我に返るということがある。その刹那の感覚を歌にしたと考えるほうが、まだふさわしいかもしれない。しかし、そう考えるなら、「驚いて、自分のいる部屋をながめる」という振る舞いが、大げさにすぎるように思えるのだ。

比ゆ的に言えば、こうなるだろうか。地球外の宇宙の、まったく別の時間、別の空間、別の論理のもとに生きていた何ものかが、突然、地上のとある安下宿の一室に投げ込まれる。きっと新たな生誕の瞬間のような衝撃を受けるだろう。

「どうしていったいここに自分がいるのか、驚いて部屋をながめる」という、この歌の強い調子は、そんな状況にこそふさわしい。この歌集の中では異質な、存在の問いをはらんだ一首。