大井川通信

大井川あたりの事ども

小説『失踪』を構想する

『濹東奇譚』の中で、主人公大江匡は、小説『失踪』を構想し、その資料を集めることを、町歩きの目的の一つとしている。しかし、作中、『失踪』は、家庭から出奔した元中学教師の種田が、女給のすみ子のアパートに逃れて、二人の将来について語りあうところで中断し、その後触れられることはない。

この作中の小説の結末を考えるという課題が出た。『失踪』が中断したのは、『濹東奇譚』という小説の展開には必然だったのだろうから、『失踪』を完成させるためには、『濹東奇譚』全体を再構成する必要があるだろう。その梗概は以下のようなものになった。

 

荷風は、向島玉の井に通いながら、その見聞を材料にして小説『失踪』の腹案を練っている。荷風はお雪との関係が深まるに連れて、『失踪』を完成させることよりも、お雪との交渉を私小説仕立てで描くことに関心が移る。主人公は荷風の分身大江匡となり、お雪は荷風好みに理想化されて、二人の別れも荷風の趣味嗜好で脚色される。

小説『濹東奇譚』の世間での好評を得た荷風は、久しぶりに玉の井をこっそり訪問するが、もはやお雪の姿はない。路地におでん屋を見つけてのぞくと、店を切り盛りするすみ子と、それを助ける種田の姿がある。

種田はあのあと、家族からうまく雲隠れをして失踪者として処理され、すみ子のもとで暮らしていた。おでん屋は繁昌し、すみ子の蓄えと種田の退職金をもとに、当地で私娼を抱える店を出す計画もあるという。

荷風は、小説『失踪』を放棄したことを二人に詫びる。しかし種田は、先生が『濹東奇譚』へと執筆方針を変更したおかげで、自分たちへの世間の注目が無くなり、ストーリーから自由に生きることができるようになったと、むしろ荷風に感謝をする。荷風は、種田への羨望を感じながら、玉の井をあとにする。